海外旅行と風俗女性に付いて
娼婦と共に歩くタイの旅
(アランヤ地区に注意情報が出ていた頃)
旅行会社から「12月下旬の東京とバンコク間の航空券が取れた」と連絡が有った。タイ国の地域調査に行く。出発に当たり現金1万円、旅行小切手10万円、VISAカードを用意する。
当日UA機で18時30分に成田発、タイ時間23時にドン・ムアン空港着、ここで1万円を3350バーツ(3円=1B)に両替する。配車場で50Bの利用券を受け取りタクスィーに乗って(50B+正規料金)、新ペブリ通りのサイアムホテルへ向かう。1泊750B、26日1時前に部屋へ入る。
荷物を置いて、次の予定を考える。上手く女性が見つかれば、昼ごろホテルを出て、アランヤ・プラテート地区行きにしよう。ここはカンボジア国との国境に在り、少し危険な所らし� ��。なお途中の都市にも用事が有る。旅を円滑に進める為には同行者(案内人)が欲しい。
(ニーと出会う)
このホテルには24時間営業のコーフィシャップがあり、若い女性たちが集まる事で知られている。大半が娼婦(売春婦)を兼ねている。行くと数人の集まりがあちらこちらに有り、30人以上は居る。先ずは観察で、ゆっくりと彼女たちを見やりながら、食卓の間を行き来する。彼女たちは飲食しながらも、チラチラとこちらを見ている。
やがて20歳位(IDカード23歳)の可愛い女性が話し掛けて来て、「ショート1500B,泊まり3000Bでどうか」と言う。私がNOと言うと、1200Bに下げる。相場は1000B以下だが、用件を考えて了解する。ともかく部屋へ来てもらう事にして、「10 分後に」と伝える。
部屋で待つこと数分で彼女が来る。先ず座ってもらい、私から名乗り、呼んだ目的を話す。彼女は少し驚いていたが、2泊で28日までと分かると、「一緒に行きます」と答える。私は大きく「コップンカップ」と言った。
さて少し雑談してから、取材もさせてくれないかと頼むと、「はい」と言う。以下は3日の内に彼女が語ったことを、私なりにまとめたものである。
・・・・彼女の名はルジラ・モリャディー、愛称をニー(Ni)と言う。北部チェンマイ市近くの田舎で、貧しい家庭に育った。父母は苦労してニーを中学校まで出してくれたので、英語も学んでいる。近くには兄夫婦も住んでいるが、やはり貧しい。中卒後ニーも近くで働いたが、収入はやはり少ない。そこで意を決して、一� �でバンコクへ出て来て、風俗営業に入った。以後5年になる。
初めは父母も嫌がっていたが、今は何も言わない。この仕事で稼いで、父母へ毎月の仕送りもしている。店の近くに一人で部屋を借りて居り、中古車(ニッサン・サニー)も持っている。どうにか上手くやっていて、時々車で実家へ帰るのが楽しみだ。特定の男は居ない。
今日はお店(ファションマッサージで日本のソープランドに当たり、24時で終了する)でお客が付かず、収入が無い。そこで同じくあぶれた仲間とここへ来て、一見の客を探していた。
さてお店の支配人からは二つの事をうるさく言われている。一つはエイズなど性病予防の為の清潔と衛生だ。もし定期的に行なわれている検査で病気が見つかると、お店へ出してもらえない。店� ��での営業だから、病気は店の信用に関わるらしく、これは厳しいそうである。GOGOバーの女性の様に、店外の性愛で病気予防は本人しだいなのと較べて、少し違う様だ。仲間も皆で支配人の言い付けを守っているらしい。
もう一つはサーヴィステクニックだ。これもお店の方で教えているので、お客からの苦情はまず無いと言う。なおお店では、タイ式マッサージのやり方も教えている。普通、サーヴィスは全身洗い・本番・マッサージから成ると言う。ニーたちは2度目・3度目の客になると、マッサージに力を込める様だ。確かにこれはそう快である。
2時過ぎとなったので,今日11時過ぎの再会を約束して、小使いを渡して、ニーに帰ってもらう。
10時30分起床、身ずくろいする。もしニーが来なかっ� �ら予定変更だ。悪い予感も頭をかすめるが、今は待つしかない。ほぼ時間通りに来る。見ると歩ける服装だ。幸先は良い。
(ニーに任せて)
この旅行では少しぜい沢をして、6000B位掛かると見込んだ。そこでニーに7000B入りの財布を渡して「今から貴方は私の妻だ、これで賄って欲しい」と話す。ニーはちょっと驚いたが、直ぐに分かってニッコリとする。納得だ。ホテルから出ると、ニーがタクスィーを止め、行き先を告げ、支払いもする。昼食にレストランへ行く。ニーが先に立ち、私は後ろから。私は素材だけを言い、他は全て任せる。注文から支払いまでニーが取り仕切っている。店の人も日・タイの夫婦と思ったらしく、「ユア・ワイフ」と言って、ニーに対しても丁寧に応じている。800Bだ。
所で娼婦とは言え、彼女たちにも自尊心が有る。例え高級レストランへ行っても、男が支払っていると、自分の立場が周りの人にも分かるので、内心は穏やかでない。脇を向いて居たりする。
さて、行きは列車でクロントン駅を14時頃に出て、プラチンブリ市へ向かう。ここはアランヤ市への中間点だが、立ち寄るのは別の理由も有る。私の「国際困り事相談」で一件の依頼が有った。
おばあちゃんは、それが上にあるものを希望しました
光山氏(36歳)はタイ女性(26歳?)と結婚する予定だと言う。彼女は日本に不法在留していたが、今は結婚準備で帰国している。日本で彼が結婚を申し込むと、親にも聞いて見ると言う。後日、結婚を認めるとの手紙が来たと言い、氏に見せてくれる。タイ字を読めない氏に、タイ字とアルファベットで差出人の住所も書いてくれた。氏はここで支度金50万円と航空券代10万円を渡している。成田への見送りは「貴方はお仕事の有る日だから」と言われて、行っていない。
さて帰国後、彼女から何の連絡も無い。氏から電話を掛けても通じないし、手紙を出しても返事が無い。そこで困って相談して来たのだが、私も� �強の為と思い、調査を引き受けた。この住所をニーに見せて、事情も説明した。
列車は始め込んでいたので、ニーは私のバッグの持ち方に、たすき掛けで前に持てと口うるさく言う。危険なのか。やがて人が減り、二人で座れる様に為ると、何時の間にか私に身を寄せて、寝入ってしまう。寝不足だろうが、実に信頼の表情か、可愛い。
プラチン駅ではニーが三輪タクスィー(トクトク)を止めて、行き先を説明する。走ること15分、住所先は在り家も有る。内から出て来た主人らしい男に、ニーが「マ・パヨンさんは居ますか」と尋ねる。私は観察する。男は見知らぬ二人を疑わしそうに見ていたが、「知らない」と答える。ニーが幾つか質問をしても、知らないと繰り返して家の内へ入ってしまった。おかしい。
そこで近くの家へ行って、「マ・パヨンさんを知らないか」と尋ねると、内に居た人に問い合わせている。答えは「知らない」だ。他の家で聞いても同じ。これは信頼できる。
調査は終わり。この女性は男の親族だろう。手紙を小細工に用いて、氏から60万円以上を引き出したのだ。空港へはやはりお金を出した、別の「婚約者」が見送ったかも知れない。ニーは「あの男は悪い奴だ」だと言い、怒っている。まあよく有る話なのだが。
(ニーのIDを用いて)
ここで日も暮れかかった(18時)ので、この市で一級のローズホテル(温水とエアコンが付いて800B)へ向かう。ニーが先に立って入り、宿泊手続きをする。他国民だと普通以上のホテルでは旅券の提示を求められるが、今日はニーのID(身分証 明書)だけで終わり。所で娼婦が自分のIDを用いて、この様なホテルに日本人を泊めるなどとは考えられないらしい。ボーイが「貴方の奥さんは可愛いですね」と真面目な顔で語る。ホテル側は私たちを夫婦と見ており、この話をニーにすると、大いに気を良くしている。
余談だが、タイでも他国民相手の「結婚」などに、証明書の偽造が多く行なわれている。しかしIDその物の偽造は少なく、処罰も厳しいらしい。ホテル側はニーのID番号を記録しているから、当然、私へ何か悪事を仕掛けてやろうなどと、考えてもいなっかった事になる。ニーの気持ちが示された、小さな大事な話となる。
早速、食事にする。ニーがトクトクを止めて、「この市で一番のレストランへ行って欲しい」と告げる。行った先は食堂の建� ��と広い庭を持つ店だ。庭には幾つものテーブルが設えて有り、上は既に満天の星空となっている。ここでもカニ・エビ・野菜と言って、他は全てをニーに任せる。
先に台車に乗せた氷とビアがくる。直ぐにニーは台車を脇に寄せて飲み物サーヴィスだ。次に料理が来る。さて食べようとすると、先ずニーが手を出して、食べ方の説明をしながら、私の為に小皿へ取り分けてくれる。それから自分だ。小皿が空くと食べるのを止めて、また同じくする。ビアも注ぐ。周りを見るとウエイトレスが居て、お客にこの仕事をしている。
家庭で躾けられたのだろうか、文字通り他の女性に関与させない。今の日本で考えると、うその様な本当の話だ。
のんびり食事をして(600B)、ニーに手を引かれて外へ出ると、帰りのト� �トクが手配されている。私は昼からお金に触っていない。
明日は早い。風呂へ入り、21時頃に床へ付く。ニーはベッドの前に向かってワイ(合掌)している。私がニーに向かってワイすると怒り出した。・・・消灯。
27日は5時起床。出発準備をして、未だ暗い5時半にホテルを出る。見ると向こうから托鉢のお坊さんが歩いて来る。ニーはひざま付いて10B(?)を奉げると、三拝・四拝している。あっと思って、私もニーをまねる。これにはニーも喜んでいた。
プラチンのバス停を6時に出発。街道から見える夜明けの太陽がすごく美しい。
(アランヤに着く)
9時前、アランヤ市に近づくと軍(警察ではない)の検問が有る。兵士が乗り込んで来て、IDをチェックしている。私は旅券を出す� ��、これを見ていた兵士が厳しい表情で、タイ風英語で詰問して来る。相手は軍だ。有無を言わさずバンコクへ帰らされかねない。私も緊張する。
この時ニーが何かをタイ語で説明し始める。やがて彼の顔つきが穏やかになり、冗談を言いながら下車して行く。タイの軍人も可愛い女性には甘いらしい。
さてアランヤ市でも一級のインターホテルに入る。温水・エアコン付きで750B。10時頃トクトクに乗って国境へと向かう。
国境手前で目立つのは大きな倉庫群と巨大なマーケットだ。大型高価品(自動車・エアコンなど)を除くと、あらゆる物が売られている。客も多い。品物の出所はベトナム・台湾など、各地の銘標が付いている。日本製も有る。
帰りにニーはおいやめいの為と言って、お土産を買った。 私が黙って見ていると、お金を自分自身の財布から出している。500B位か、律儀である。
マーケットを抜けると、カンボジアへ続くほこりだらけの凸凹な道だ。自動車は無く、様々な形をした大小のリヤカーが行き来している。荷物は来るより、出て行く方が多い。実に粗末な身なりの男と女、老人(?)から子供までが働いている。ニーは身なりと雰囲気でタイ人かカンボジア人かの区別をしている。
国境の橋を両国の人が、大した手続きも無しに行き来している。そこで、私が橋を渡って向こう側へ言って見ようと言うと、ニーは強く反対する。私も粗末な身なりであったが、税関職員も「貴方の服装では非常に危険だ(良すぎる)」と強く言う。やむを得ず越境は中止した。するとニーは「ご免なさい」と何回も謝る� �彼女は何も悪くない。私は返す言葉に困った。
私達の前方に居た12歳位の子供がいきなり走り出して、近くの林へ駆け込んで行く。見ると兵士もすごい勢いで、その後を追って駆け込んで行く。銃声も聞こえる。やがて数分、兵士が荷物を取り上げて出て来ると、後ろから子供が泣きながらとぼとぼと付いて来る。荷物の中に禁じられた物が入っているのだろう。ここは国境だ。子供であっても甘くはされない。ニーはずっと私の腕を抱えたままであった。良く見ると、生きる為に必死な人々の姿があちらこちらに限り無く有る。
(2002年、ここは整備が進んで、普通の交易所にな成っており、観光客も増えた。かつての面影は無い)
彼女が夢中になる
調査を終えてホテルへ戻るともう18時。軽くお湯を浴びてから、トクトクでアランヤ一番のレストランへ行く。車は街中を離れて行き、やがてきれいに飾られた一軒家が見えて来る。今夜も満天下の食事になる。500B。帰りの車が来ない。そこで大通り迄2km程の歩きになるが、ニーは私と手をつないだり、腕を組んだりと楽しそうだ。思い返せば、ニーは昨日からしょっちゅう手をつなごうとする。2人で居るのなら当り前だと思っているらしい。
風呂から上がるとニーは足を痛そうにしている。私がかのオロナイン軟膏をすり込んで上げる。ついでにニーから教わったマッサージをして上げると、実に気持ち良さそうにしている。今日は疲れた。明日も早� �ので、仏様に感謝してから、早く寝る。
(ニーは結婚相手にすごく良い)
28日も5時過ぎに起床。5時半過ぎにアランヤ鉄道駅へと向かう。バンコク行きが6時過ぎに出る。
ところでニーは妙に嬉しそうだ。聞くと、今日の夜に両親が正月の買い物などでバンコクへ出て来ると言う。
さて。ニーは可愛い小さな子供を見ると、すごく興味を示す。私が結婚したいのかと問うと、したいと素直に答える。タイの貧困層にはろくでなしの父親が多いと言われるが、ニーは真面目に働く父親を持って、これと結婚相手と重ねるのだろうか。加えて、結婚は直ぐに我が子へと連なるらしい。
「日本男性は」と聞くと、「日本人(のお客)は良い人が多い、もちろん」と答える。後でも記すが、私から見ても結婚相手 として彼女はverry goodである。
列車が走り出すと、車内は朝食時間なので、様々な物を売りに来る。するとニーは肉まん・弁当・果物・お菓子などを直ぐに買って私に食べさせようとする。自分でパックを開き・混ぜたりして、ただ食べるだけにしてから手渡してくれる。お菓子などは私が口を開けるだけで、レストランの場合と同じだ。結局、半分位は残った。私が「買いすぎ」と言うと、ニーは「御免なさい」と言う。
そうこうする内にバンコクへ着き、12時過ぎにサイアムホテルへ入る。ニーは「貴方は汚れているから」と、先ず浴槽へ温水を満たしに行く。さてニーから財布を返してもらうと、1000B位残っている。二人分として私がほぼ見込んだ通りだ(家計感覚もOKだ)。そのまま上げると、すごく喜ぶ。封筒に入れた幾分� �めの5000Bも上げる。そのままバッグに入れるので、私は「中身を見たら」と言い掛けて、「あっ」と思って止めた。
食事はと聞くと、「列車内で食べたので要らない」と言う。ニーは13時過ぎに帰っていった。
(深夜にニーが来て、ハッピニュ-イヤー)
さてニーは29日にも少し調査の協力をしてもらった。別れ際「1日の朝方に両親とここを立って、田舎で新年を迎えるので、貴方を空港まで見送りに行けない。前夜、ホテルに行って良いですか」と問う。私は帰国の為に6時起床の予定だったが、何の気も無しにOKといってしまった。
さて1日0時30分ごろに部屋をノックする音。「ギョ、本当に来てしまった。眠い」 しかし意を決してにこやかに迎え入れると、数倍もにこやかに「ハッピニ� ��ウイヤー」と言いながら、手にはプレゼント(タイ人形)を持って、入って来る。店が終わってから直ぐに来たらしく、今日は3人お客が有ったので良かったとも語る。この直情さを前にして私の眠さも消え去った。
「一期一会」と言う言葉も有るが、今回の旅はニーに助けられて本当に良かった。
(25年前)
私が初めてタイ国の地域調査をしたのはこの頃だ。当時は今日と較べ様も無いほど雑然としており・調査も難しかった。
さて3泊の予定で北西部の山地農村へ行く事とする。マレイシアホテルに出入りしているタクスィーの運転手(この人は旧日本軍時代の人で実直、日本語も話せる)に話すと、一緒に行ける人を紹介するという。
彼の車が向かった先はモーテル式の娼館だった。若い女性達が� �5名位も居る。支配人が私の連れ出しの目的を告げると、半数位が残る。ここで最も可愛くて・実直そうな女性を選ぶ。支配人に3日分の連れ出し料を支払い、彼女(ナーム)の準備の出来るのを待って、再び彼の車で、長距離バス停へと向かった。
昼過ぎのバスに乗って数時間、18時前に小さな町のホテルに入り、先ず二人で食事を済ませた。ナームも簡単なEnglishを話すので、幾らかの会話が出来る。(娼婦たちは仕事柄か、簡単なEnglishを話す人が多い)
さて、ナームが風呂で身体を洗っている時に外へ出て見ると、遠くから祭り囃しの様なものが聞こえて来る。月明かりの下、音を頼りに行くと村祭りだ。私も紛れ込んで歌や芝居を見て楽しむ。さて21時頃に帰って来ると、部屋の入り口で、戸 を空けたナームに往復びんたをパンパンとやられた。「ここはすごく危ない所だ。それなのに勝手にフラフラ出歩いて。私がどんなに心配したか分からないのか」と怒っている。まるで母の愛だ。私は謝るしか無い。
思い返すと、道路わきのまともな家は塀で囲われて、塀の上には鉄条網が張られている。頑丈に防備していた。明らかに治安の悪さを示していて、その他の粗末な家と区別されている。次日の夜の外出には、ナームも一緒にさせられた。
ちなみにナームの話によると、今22歳、子供1人、性悪な夫と別れた後に、今の娼家へ入った。4日目は母に預けた子供のところへ真っ直ぐ帰ると言う。私は子供のお土産にと、花向けを多めに上げた。
(さて今日)
タイ北部からミャンマーに入っての、� ��泊の調査を予定した。チェンライ市に在る娼家へ行き、女性支配人に目的を話すと、3人の女性を紹介してくれた。この中の一人チャーを選び、国境へと向かった。ところでチャーは証明書らしき物を持っているが、旅券を持っていない。19歳と言ったが、やはりもっと若い。タイ語も少し変だ。Englishは上手い。仏教寺院へは入ろうとしない。何かすごく生真面目で、これまでの女性と少しく異なる。
良く話を聞いて見ると、ミャンマー国から来たカレン族の娘だと言う。ミャンマーから多くの出稼ぎ者が来ているのを見・知ってはいたが、チャーも出稼ぎ者、それも苦しい状況にあるカレン族からであった。私がカレン族を知っていると分かるとやはり喜ぶ。発展するタイへ、娼婦としての若い女性の出稼ぎは自ずと 成り行きなのだろう。
ミャンマーの旅行・調査は難しかったが、チャーが移動や宿泊などで手助けしてくれたお陰で、随分と助かった。ところでチャーは出稼ぎなので質素な生活をしている。別れにタイ製の奇麗な巻きスカートを買って上げると嬉しがっていた。
注)この一文は、日本人からの聞き取り・女性たちからの聞き取り・各種報告書からの読み取り・私の体験や調査・その他から構成されて居ます。架空の物語でなく、実際に幾つも有る話を元にした真実です。タイで交友する人々に取って、何らかの糧(かて)と為れば幸いです。(下へ続きます)
(追加) トォンとカンボジア国へ行った時
誰が汚い仕事の星?
先頃、アランヤ市からポイペト町に入り、タイとカンボジアの関わりを後者の側から昼間に調査した。この時、ポイペトは賭博などの町でもあり、夜間の調査が必要、しかし個人では相当に危険であると実感する。そこで無理を避けて帰国した。
さて近頃、改めて調査の機会を得た。そこで、先ずバンコクで同行者を探す事にして、二十一時過ぎに市内のホテルを出る。スクムヴィット通りのソイ七に入り、二分ほど行くと、大きなオープン式の食堂の前にビア・ガルテン(ドイツ風のビア・バーで出入りが自由の店)がある。ここにはフリーの者も含めて、娼婦たちが五十名以上も集まって来る。なお客に日本人は少ない。
私も中に入り、彼女たち見ながら� �回する。ここで入り口近くにいた一人を選んで、前の食堂へ招き行く。土・日に掛けてポイペトへ行く話しをするが、乗り気でない。不調。幾らかの小遣いを渡して別れる。次を探してまた店に行く。三人目に会ったのがトォン・ポイチェである。彼女は現在失業中な為、フリーの娼婦をしている。乗り気である。場所を近くの喫茶店に移して、詳しい話をする。日時・支払い・その他に付いて合意する。トォンにタクスィー代を多目に渡す。
さて、当日の朝、少し不安を抱えながら、トォンをホテルで待つ。少し遅れたが、歩き易い服装で来る。良かった、これで上手く行く。
所でトォンは二十二歳位か、実直な感じだが、笑顔も良い(I Dカードでは二十五歳)。親元を離れてバンコクにいるが、今は失業中。結婚暦はなく、子もいない。特定の男相手はいないので、フリーの娼婦としては働き易いが、やはり寂しさは感じていると言う。性格の良さも感じられて、同行者としてはGOODらしい。
早速、タクスィーにて、長距離バス駅へと向かう。途中で食事を共にしながら、親交を深める。やがて、国境を越えて、十七時前にポイペトへ着き、かねて予定のNGY HENGホテルへと入る。何故か、タイ人は簡単にカンボジアへ入れるらしい。トォンも私と別の手続きをしていた。
ここで二時間ほど休憩してから、十九時ころ町の調査へと出かける。かねて予定の商店地や市場、酒場や風俗の店、そして第一目的のギャンブル・賭博の場所へも行く。この町にはホテルの内にも・食堂風の店にも・まともそうな建物内にも・その他にも、多くの・様々なギャンブル・賭博場が有る。文字通りタイに面した賭博の町だ。タイ人・その他が遊んでいる(日本人は少ない)。タイとカンボジアの関係が良く見える。ちなみにここはタイ・バーツがそのまま使える。
さて調査は食事や休息を挟みながら、翌二時ころまで続いた。この間、土地のならず者らしき人が何回か寄って来たが、トォンは断固とし てはね付け・付け入る隙を与えない。頼りになる。所で、警官も相手がタイ人だと態度が少し変わるらしい。検問らしい時にも、彼女が説明すると、対応が温和になった様だ。
さてホテルへ帰ると、今日の上手く行った事を祝して乾杯する。疲れも有り、直ぐに入床する。やがて十時ころ起床し、次の用事の為、バンコクへと向かう。二十時ころに着く。今回も随分と助けられたので、予定より五百バーツ多く渡すと、大いに喜んでいた。所で実に危ない事をしたものだとの想いと共に、娼婦でも実直な人に当たると、命も助けられるとの想いを改めて強くする。
「風俗小論」
誤まった言葉・・・「女(男)を買う・買うな」
この言葉は単なる文言上の理由でなく、全くの間違いだ。しかし日本人は何故か多く用いている。加えてこの言い方が本人の気持ちにまで染み込んでいる。そこで上辺ではともかく、娼婦(夫)たちを低く見て向き合う。だが彼女たちはこれを敏感に感じ取るので、すると型どうりのサーヴィスしかしない。そこでお客がスペシャルサーヴィスを求めると、空かさずスペシャルマニー(別途金)を求められる。(今日ではお店が彼女たちにお客への特別奉仕を強要する事はほとんど無い)
正確に言うと、買うのは女では無い。彼女たちの性的サーヴィスと愛情である。
私はこれ迄に幾つもの途上国で、観光地のみでな� �、スラム街へ・僻地へ・危険地区へも行った。彼女たちは社会の中・底辺を概ね良く知っている。彼女たちと応分の信頼関係が有れば、一緒だと安全で能率の良い・円滑な旅行が出来る。ここで「買った」と言う気持ちは最初から有害・無益であった。しかしこれは、普通に交接する人に取っても同じである。
そこに10人の娼婦が居れば、捻くれた性悪女性も、普通の女性も、心優しく奉仕する女性も居る。(後者でも男性が横柄だと、心を閉じてしまう) 私も前者を選んでしまい、旅の途中から突き返した時も有る。
華やかな化粧の上から娼婦の心根を読み取るのは、本当に難しい。まして、運良く後者を選んでいるのに、「女を買って」、相手をただの「商売女」に変身させるとしたら、実に愚かである。
繰り返すが 、愚劣な言葉(=心底)=「女を買う」は、彼女から得られる多くのものを失わせて、かつ「お金が欲しいだけの女」に変えてしまう妙薬でしかない(彼女たちは相手の気持ちを読み取るのに、長けているのだろう)。
元娼婦と結婚する日本男性たち
私の国際困り事相談から見ると、日本男性とタイなどの旅先きや風俗店などで知り合った娼婦との結婚話も、例外ではない。男性本人は口外しないから、周りの人には分からないらしい。
しかし私が相談で「貴方の話からすると、その人は売春をしていた女性ですよ。良いんですか」と問うと、「分かっています」と冷静に答える。これはまあ心配が無い。(ここで向きになる人は難しい)
彼も「男女平等・女性の権利」などを強く主張� ��る日本女性から離れて、(微笑みの)タイ女性などに心を引かれたのだろうか。
もっとも「そんなはずは無い」と答える男性、これは危なっかしい。今直ぐに引き返さなければ、やがてこれら性悪な女性の怖さを身に染みるだろう。
ともかく国際結婚も、甘くは無く・難しいものである。冷静さと慎重さ・早めに事情が分かる信頼出来る人に相談する気持ちなどが大切となる。離婚しないまでも、口外しないで・陽気にしていても、じっと困難な結婚生活に耐えている人も多いのだから。
バービアのお母さんと行く
'04、08、31
'04年8月のある土曜日の10時頃、私はパタヤのジョムティエンガーデンホテルの左隣りにあるセブンイレブンで買い物をしていた。出掛けに幾分派手なかっこうをした女性が、ニコッと笑顔を見せながら入って来る。私は出た後に、少し考えて、彼女に語り掛けて見ようと思い、再入店する。
奥の方で見付けて、サワディ・カップと言ってから「話をしたい」と告げると、「はい」とにこやかに答える。
名前はノイ(本名はカニンカ・サンパンスィット)、夜にバービア(開放式の酒場で、風俗営業の一つ)で働いており、今は子供(2歳)の物を買いに来たと言う。幾つか話した後に、「貴女の家へ行って見たいがどうか」と聞くと、これも「はい」と答える。
店� ��ら2分位歩いた所に、古びた4階建ての細長いビルがあり、1階は10個位の店舗用施設に分かれていて、ノイはその1つへと入る。そこには数人の男女と、数人の小さな子供たちがいる。普通電話と冷蔵庫が見える。ノイは「これが私の子だ」と言い、かつ45歳位の子守りの女性(数人を預かっている)と、40歳位の同居の女性(近くで雑用係をしている)も紹介してくれた。
4人で雑談をし・子供たちと遊んだりしながら、追い追いノイの事情も聞いていく。
ノイは北部のフィヤオで生まれ・ここで育った。私が「そこを知っている」と言うと、びっくりしつつ喜ぶ(湖に面した奇麗な所で、先に家族と行った)。やがて20歳の時に地元の男性と結婚をして、次の年にこの子が生まれた。しかし彼は直ぐに母子を� �捨てる様になり、やむを得ず離婚する(これは他でもよく聞く話ではあるが)。
さて、フィヤオでは生活し難いため、知人の呼び込みもあり、子供を連れてパタヤへ出て来て、バービアに入った。今は24歳、ここでの暮らしも半年、ようやく慣れて来たと言う。
所でノイの話に付いては、ID(大半の人が持っている身分証明書。偽造は少ないらしい)の部分は確かめられたが、他は検証されていない。なお日本語は全くダメだったが、話し方英語はある程度通じて、簡易な交流なら困らない。
さて一時間位経ってから、「これからホテルを探しに行く。どこか良い所を知らないか」と尋ねると、「知っている」と言う。「一緒に来てくれるか」と求めると、「行く」とも言う。
そこからソンテウ(ジープ式の バスやタクスィー)で15分位走ると、ノイはエイペックスホテル(私も知っていた。部屋代は安いが、エアコン・温水・プールが有り、アメリカ家族らしい人たちが何組か来ている)の前で降りる。ノイが先に入ったので、先ず入り口の脇へ呼び、500B(大きく書いてある。100B=275円位)を渡して、受付を頼む。少し怪げんそうな顔をしたが、特に拘わらずカウンターの前へ。受付の女性も、全くの風俗嬢と言う感じの女性を前にして、少し戸惑っていたが、やがて宿泊書を出し、IDの提示を求めた。ノイが署名してお金を支払うと、私にも署名と旅券の提示を求める。しかし鍵はノイに渡している。これで良い。なおホテルと私とノイが公的につながった事にもなる。
さて部屋に入ると13時少し前。そこで食事やゲイ ムやコーヒーをしたり・ふざけたりしながら、ノイの話を徐々に・様々に聞いて行く。(この内容は別に報告する)
やがて夕方になると、「子供の世話・お店へ出る準備などがあるので帰る」と言う。私が「店が終わったら、またここへ来ないか」と聞くと、「来る」とも言う。そこで 100Bを渡して、送り出した。
余談だが、帰った後に、プールへ入ろうとすると、手前に日本人若者が二人いて、何と無く話し込む。やがて彼らは「今夜、バービアへ女を買いに行く。何だか、値段の交渉が難しそうだ」と語る。私が「そのバービアの女性と今まで一緒だったよ。所で、買うとか、交渉とか言っていてはダメ。友人になる積もりで。小遣いは別れ時に相場のものをあげれば良いんだ」と語ると、不思議そうな顔をしている 。
そこで私も監修した本「タイ・夜の歩き方」を見せてあげる。「ともかく、買う(買うな)などと言う気持ちでいたら、彼女たちは敏感だから、直ぐに悪く扱われてしまう。何一つ良い事は無い」語ると、「初めてそんな話を聞いた」ともらす。そこで「この本を呼んでご覧、今の話が良く分かると思うよ」と、宣伝もして分かれた。まだまだ、日本人は不毛な言い方に取り囲まれている。
さて深夜3時過ぎ、戸を叩く音がする。開けると、ノイが疲れた様子で立っている。直ぐにベッドへ導くと、間も無く寝入ってしまった。何と言うか、服は脱ぎっぱなし・バッグは開けっ放しである。ありゃーか。
その朝、ホテルで朝食時に、ノイが「バンコクをほとんど知らない」と言う(通り過ぎただけらしい)。そこで「� �の機会に連れて行ってあげようか」と言うと、「行きたい」と答える。そこで私の連絡先を教え、携帯電話番号を聞いて、1000B(取材料など)と50B(バス代)を渡して、送り出した。さようなら。
さて次の土曜日、先に電話して、夕方、ノイの住処を訪ねる。再会のあいさつ後、「夕食に行こう」と誘うと、「子供と子守と同室の人も一緒で良いか」と聞く。「当然」と告げる。
ノイは食後に其のまま出勤するので、身体を洗い・身づくろいをする」と言って上の自室へ上がる。洗い終わった頃を見計らって、私も上にいく。ノイは「あら来たの」と言う感じで、直ぐに部屋に入れてくれた。
部屋と言っても、階段の踊り場を板で間仕切りしただけ、6畳間位の大きさである。。中には大きなテレビ(金目の物� �他に携帯電話だけか)、大きなマットレスと毛布や枕、ピンクの蚊帳一張り、国王夫妻とノイの親族らしい人の写真、小さな仏壇、中鏡、40cm*60cm位の小物入れ2つ。テレビの両脇には多数の安物らしい衣類(片方は同居の人の分)が紐で吊るしてあり、子供の玩具類もある。他にはタオル・テッシュ・カップの様な小物が少々見られる。
室外にはござがが敷いてあり、隅に鍋などの食器類が3・4個(どうも使っていそうも無い。外食か、食材を買って食べているのだろう)。前方に共同のトイレ室があり、水浴び用の大きな水桶も見える。ともかく、三人の居室としては、実に簡素と言うか、殆んど何も無い。戸には申し訳程度に小さな鍵を掛けてあるが、いたずら防止程度か。
さて、ノイが家族の小型写真集3� ��を見せてくれた(元夫の物は無い)ので、身づくろい中にも話す。フィヤオに父母は既に無く、家庭を持った兄と姉がいる。先の大きな写真は父母だと言う。思わず合掌して、頭を下げた。ともかく、父と母・兄と姉・子供などの写真が数十枚、かつての生活が見える。この部屋の様子から・写真から、何と無くノイの寂しさが伝わって来るような一時でもあった。
さてレストランでのタイの習慣に、多くを注文して食べ散らかす事があるそうだが、私は注文数をキチッと管理する。料理3品、焼き飯1品、飲み物1品ずつの計9品。結果的には皆が満腹となり、これでも余ってしまった。食後、ノイは店、私はJ Gホテルなど、それぞれに分かれて去った。
次の日、午前中は海やプールで泳ぐなどして、大いに鋭気を養い、11時ころにノイの所へ行く。直ぐに用意が出来たので、出かけ様とすると、子供が私を父親とでも思ったのか、しがみ付いて離れない。何とか騙し騙し子守の女性に預けて、ソンテウに乗ったが、気重な別れでもあった。所でノイはエアコンバス停を知らないと言う。何時も普通バスか、??であるが、私が運転手に道を示して向かってもらった。12時前、バスは順調に出発する。
15時前、泊まり付けのバンコク・プリンスホテルに着く。ノイに900Bを渡して、今夜の受け付けを頼む。受付女性は少し不安そうであったが、私を知ってもいて、直ぐにノイだけで宿泊手続きを完了してくれた。
部屋に入 り、少し休む。先ずチャオプラヤ川ディナークルーズを予約してから、バイヨクタワー84階へ向かう。私がタクスィーを止めようとすると、サムロー(三輪車)に乗りたいと言い、嫌だと言うと不機嫌に。「ま、パタヤにもフィヤオにも無いんだから良いか」とサムローに変更する。
この有名なタワーからはバンコクが一望出来る。初めは怖がっていたノイも、やがて嬉々として望遠している。船出まで間が有ったので、プラトゥナム市場へ。パタヤと売っている物は同じだが、市場の大きさは違う。馬鹿馬鹿しいとも思ったが、ノイははしゃいでいた。わざと高架鉄道と最新の地下鉄を利用して船着場へ行く。
ディナークルーズはノイに取って相当に楽しかったらしい。何ものも珍しかったのだろう。終わり近くになると、司� ��者が客達をダンスへと誘込む。初めは尻込みしていたが、強く押し出すと、何時の間にか、見よう見真似で踊っている。24歳で若いんだから、当然なのだろうが。・・・ともかく連れて来た甲斐は有ったらしい。
さてホテルに戻って、コーヒーの後で、ノイはいきなり「子供が心配だ、パタヤに帰りたい」(バスはまだ有る)と言い出す。これが母なのかと思ってあきれていると、向こうへ電話を掛けている。少し経つと、今度は「帰らない」と言い出す。どうも二人の女性のどちらかに、「ムチャしない様に」と強くたしなめられた様である。
翌朝、7時頃に起床。ホテルの食堂で朝食を取り、8時過ぎに送り出す。1500Bと200Bを渡して、ホテル前からエアコンバス停に向け、タクスィーに乗せてあげた。
� ��れは私の見て・聞いてからだが、ノイはある程度の収入が有っても、銀行預金が無く、先き行きへの生活計画も無い。もち論、この為の訓練も受けていないし、心構えもない。残念だが、経済の成長するタイにあって、取り残されて行く人々の一人だとも言えよう。
心情的にはかなり良い女性なのだが、真面目な日本男性に結婚相手として紹介するのには、何故か二の足を踏む。ノイにも、紹介して欲しいと頼まれた人にも、上手な伝え方は見付からないのだが、やはり私では責任が持てないか。
この一文は雑誌「ジー・ダイアリー」の'05年4月号に載っています。なお福沢 諭氏のフィリピン論も有ります。
(続く)
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