東方SS「老人と門」
東方SS「老人と門」
老人と門
白銀の礫は書割めいた夜の山河に時ならぬ色を付け、吹き荒ぶ風と共に本来黒一色であるべき闇の緞帳をはためかせる。それは幻想郷が埋没するのではないかと思えるほど風雪の苛烈な日の出来事だったので、はじめ彼が、戸が叩かれる音を、安普請の壁が上げている悲鳴だと勘違いしたとしても、まったく無理からぬところであった。
深い山中ゆえに薪には困らないとはいえ、それも家があればの話である。時折巻き起こる暴風が落とす葉もとうに尽きた木々を揺らし、枝々をたわませる。雑多にそびえるそれらを流れが通り抜けるたびに轟々と唸りが上げられ、さながら森全体が、低気圧のためにあつらえられた金管楽器のようであった。
そうすると、この� ��びは、これ以上俺達をいじめないでくれという森の抗議なのだろうか――柱やら屋根やらがきしみ音を立てるたびに、彼はそんなことを思いながら首をすくませる。老いると全ての物事に対して鈍感になるというが、なんの、痛いの寒いのと、嫌なことに対しては鋭敏になる一方である。身を切るような外気に対して、炉辺からちろちろと覗く舌はいかにも頼りなく、彼は何ということもなしに撫で回していた一本の薪を、新たに火にくべた。
再び戸が激しく揺れ、これは覚悟を決める必要がありそうだ、と彼は暗澹とした気分で呟いた。誰かに頼めるようなまとまった足も無く、仕方がないので自ら大工の真似事としゃれ込んでみたものの、彼は木を斬った事はあっても組んだ事は無いのであ った。ついでに、尺も無ければ鉋も無い。そんな条件で、兎にも角にも家が建ったことは一つの奇跡であったし、その家が今まで倒壊せずに屹立していたことも――隙間風や雨漏りを友とする生活とはいえ――また一つの奇跡である。だが、その奇跡も今日で終わりのようだ、と彼は思った。扉が無い生活というのは、一々開けたり閉めたりしなくてもいいというメリットに対して、いささかデメリットが大きすぎるような気がする。
箪笥でも代わりに置いておくか――と半ば本気で考えていると、三度扉が震える。彼はうんざりとしながらそれを見ていたが、ふとあることに気付いた。強風によって戸が吹き飛ばされる寸前であるというのなら、それは前後に揺れているはずである。だが、ど� �もそれは、左右に揺れているように思えた。
己の迂闊さを呪いながら、彼は尻を上げる。気は逸るものの、しかし膝はきしむし、腰は伸びない。かつて血気盛んな折には二百由旬を刹那のうちに駆け抜けてみせるなどと豪語してみせたものだが、そのころの自分が今の自分を見たら、一体何と言うだろうか。諸行無常盛者必衰などとうそぶいたところで、結局のところ人は、我が身に降りかかるまで真剣にそのことを考えなどしない。おそらくこの姿が老いた自分であるなどと、気付きもしないだろう。この老いぼれた身と粗末な東屋、まこと住居がその人を表すというのは至言よの、と彼は皮肉気に頬をゆがめた。
背に冷気を感じると、傍らに大きな霊魂が降り立った。同居人でもなければ取り憑かれているわけでもなく、� �れもまた彼自身である。今の今まで見えなかったのは、ただ近くにいると寒いので天井に追いやっていたわけで、これを自分ゆえの気安さと見るか、もっと自分を大切にしろと見るかは人それぞれであろう。身体の劣化などというものから遠く離れた軽やかな動きに、瞬時うらやましくなる。自分だが。
半身が器用につっかえ棒を外すと、途端に戸が勢いよく引かれ、風より先にそのせいで戸が外れてしまいそうであった。猛烈に吹き込む雪つぶてに、彼は目をすがめた。数間の先すら見えぬ吹雪が世界を白一色に染め上げ、もしや既にここ以外は全て埋まってしまったのかと、益体もないことを考える。と、風景の一部が突如として動き出し、彼の脇を抜けて小さな三和土へと転がり込む。な� ��かの馬鹿げた戯画のように雪の団子と化していたため判別は難しかったが、突き出した手やら足やらを見る限り、どうやら人体であるように思えた。こういう形の妖怪であるという可能性も否定はできないが。半身が戸を閉ざし、つっかえ棒をかけなおすことで、一応の外への結界が再生する。老人は首を振り、肩を払って僅かな間に吹き付けた雪を落とすと、ゆっくりと膝を曲げ、発掘作業に取り掛かった。
しきりに恐縮しながらしっかりとおかわりを要求する少女は、端的に言うなら健康的な美人であった。椀を受け取り、吊るされた土鍋の蓋を外せば、煮立った汁が湯気をくゆらせる。杓で掬って差し出すと、またしきりに恐縮しながらも、遠慮は一切見せずにかきこみ始めた。どの道作りすぎて困っていたところであった� ��、下品でない食べっぷりのよさは見ていて気持ちのよいものでもある。
見た目は人と区別のつかない彼女だが、その回復の速さから考えて、おそらく妖怪なのであろう。当初は雪と見分けがつかないほど白く死相の見えた頬も今は紅が射し、鮮やかな赤髪と相まって夏の太陽を思わせた。謝意を述べる声は高く澄み、鈴のように弾む。人好きのする微笑みを見て彼はなんとなく、おそらく彼女を慕う者は多かろうと思った。
「しかし、感心しませんな。雪山に、そのような軽装で入るとは」
「いやあ、日のあるうちに戻るつもりだったものですから。山に入った途端、何者かに追いまくられて、気付けば方角も見失い、この様です」
「妖怪の山を知らぬわけではないでしょう」
少女の身なりは、大きく袖の開� �た旗袍と乗馬に使うようなズボン、そのほかはマフラーのみと、とても冬の装いとは思えない。いかに身体の頑健さに自信があろうとも、過信に至ればそれは慢心というものである。たしなめるような調子で説諭する老人に、少女は眉尻を下げ、顔から力を抜いたような笑みを浮かべた。
「そうですけども、この時期にまとまった木が手に入る場所なんて、ここか魔法の森しかありませんし」
「冬備えを怠りましたか」
「この前に失火してしまいまして。皆で方角を決めて、真冬に柴刈りです」
皆ということは、彼女はどこかに勤め、あるいは仕えているのだろう。天狗に追い回されて目立った外傷もないという点一つから考えても――天狗の目的が傷つけることではなかっ� �としても――彼女とて、並の妖怪ではあるまい。彼女を使えさせるに足る人物とは、どれほど圧倒的な力の持ち主か、もしくは圧倒的な徳の持ち主か。老人はしばし夢想したが、なんにせよ下種の勘繰りにしかならぬと気付いてやめた。
「左様でしたか。しかし、今度からはもっと厚着してくるのですな」
「身に染みました」
彼女は頭を掻きながら、白い歯を見せる。なんとなく大抵のことなら許せてしまいそうな、気を安んじさせる笑みである。こういう笑い方をする人は一見得なように思えるが、その実なにかあるごとに面倒ごとを負わされる可能性が高い。彼女もまたそうであろうと、老人は長年の経験から感じ取った。大体こんな場所を担当させられる時点で、便利に使われているに違いないのだ。彼女はそれを 自覚しているのかいないのか、どちらにしても悲劇であり喜劇である。
それから少しの間、炉端の火を眺めながら他愛もないことを話す。可憐な少女が話相手になってくれるというのは、彼にとってもそう悪い気分ではなかったし、実際彼女は話上手であった――話術が上手いというのではなく、他者を華やいだ気持ちにさせてくれるという点で。話題が途切れたときを見計らい、老人は少女に問いかけた。
「さて、今晩はいかがいたしますかな。あの通り」
そう言って老人は戸を見遣る。相変わらず風は荒れ狂い、壁に遮られて見えぬながらも、あまり積極的に出て行きたい天候ではなさそうなのは明白である。
「まだまだ吹雪いているようです。粗末な寝床でもよければ、提供いたしますが」
老人の提案に� ��少女はうーん、と悩む風を見せる。
「しかし、そこまでご厄介になるわけには」
「なに、誰に遠慮するでもない一人身。孫が一人遊びに来たようなものです」
少女は眉を寄せて逡巡するが、少しの後、眼を開けて、申し訳なさそうに辞退した。
「いえ、すみませんが……帰りが遅れると、皆が心配してしまいますから」
「確かに、それもそうですな。お気を悪くなさらず」
そういいながらも老人は、心中に芽生えたほんの少しの落胆に、顔には出さず驚いた。とうに枯れ果てたと思っていたこの身にも、まだ人恋しさというものが残っていたのだろうか。
驚きを押し流そうというように、彼は口早に続ける。
「ここから出て北……右ですな、そちらに真直ぐ進むと人里に着きます。お宅がど� �らかは存じませぬが、参考にされるとよろしいでしょう」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
頭を下げ、腰を上げようとする彼女を、老人は手で制した。
「お待ちなさい。よろしければ、これを」
半身の幽霊が、畳まれた衣服を載せて少女の横に停まる。少女の視線に頷きを返すと、少女は衣服を手に取り、広げた。
「古ぼけた外套ですが、使ってくだされ。無いよりはマシというものです」
「しかし……」
「なに、私の分は最近新調しましてな。処分に困っていたところです。それに……」
老人は一旦言葉を切り、ニヤリと唇をゆがめる。
「帰り道でまた倒れられたら、叶いませぬからな」
「いや、ははは」
少女はそれに、頬を引きつらせた。
「……では、 ありがたく使わせていただきます」
そう言うと少女は立ち上がって外套を身につけ、頭を下げる。老人にしてはかなり長躯である彼にあわせてあつらえられたその外套は、また女性にしてはかなりの長身である少女にとっても大きく、なにか自分がちんまりとした存在であるような気がして、少女は今までに感じたことの無いくすぐったさを覚えた。
「少しは風も防げましょう」
「ええ。大風には参りましたから、助かります……帽子も、集めた枝もみんな飛ばされてしまって」
「ああ、そう言えば薪を集めに来たのでしたな。なんでしたら、少し蓄えがあります。持っていかれますか」
「え、いや、そこまでご好意を受けるわけには」
老人の示す先に山と積まれた薪を認めて、慌てたように両手を振る� ��女へ、老人は穏やかに言った。
「帰りが遅れた上に手ぶらでは、肩身も狭いでしょう。まあ、あまりたくさん持っていかれると困りますがな」
「ええと……ええ、じゃあ……それでは」
本当に済まなそうに、少女は一本二本と薪を手に取る。妖怪というものは一般的にもっと遠慮の無いものだと思っていたが、その認識は間違いなのか、それとも彼女が特別なのか。
もっと持っていってもというところで少女は手を止め、懐から取り出した布地に包む。
「本当に、何から何までありがとうございました。このご恩は、必ず」
「忘れていただいて結構ですよ。袖擦り合うも多生の縁と申します。ましてや一飯を共にしたとあれば、多少の便宜を図ることに何の不都合がありましょうか」
その言葉に、少 女は花のような笑みを浮かべると、最後に深々と一礼し、戸の向こうへと去っていった。
急に冷え冷えとしたように感じられる室内を見渡し、老人は軽く息をつく。山奥に一人、仙人を気取ってみたところで、たまにこうして誰かが訪れるだけで孤独に寂しさを覚えるようでは、まるで未熟から脱してはいない。だが、あるいはその未熟さこそが、彼もまた人である証左なのかもしれなかった。
相変わらず火は頼りなかったし、また風は相変わらず唸りを上げて吹き付けていたが、なぜかそれは、先ほどよりも気にはならなかった。
◆
「……忘れていただいて結構です、と言ったと思いましたがな」
「このご恩は必ず、と言いました」
大雪は結局三日三晩に渡り、最後のほうはもはや風で壁が吹き飛ぶよ� �も、積雪で屋根が潰れるほうが心配だった。
窓などという気のきいた物は、この家には存在しない。壁の隙間から差し込む日差しに晴天の訪れを感じ、久々に戸を開けてみれば腰まで届きそうな積雪に思わず苦笑する。まこと雪というものは、降っても止んでも厄介である。
まずは雪を下ろさなければならぬと彼は屋根に上がり、横着して妖術で雪を散らしたところで、一陣の風を感じて振り返ると、そこにあの少女が降り立っていたのであった。陽光の下で見ると、その鮮やかさはより一層引き立って見える。それは燃え立つような赤髪や、胸部の豊かな膨らみによるというよりも、少女自身の生命力によるものであるように、彼には思われた。彼女はなぜか盛大に息を上げており、何か後生大事なもののように抱えている� �きな包みを、強く抱きしめる。
すると、ざわり、と気配が立ち込め、どこを見渡しても姿は見えないものの、何か多くの存在が周囲を取り囲んでいるように感じられた。ビクリと少女は顔を上げ、端正な顔に戦意をみなぎらせると、老人をかばうように立ちふさがる。そんな彼女に老人はまた苦笑し、少女の肩を叩くと、やや力を込めて押しのける。老木の痩躯とは裏腹の、物理的なそれではない『力強さ』に、少女は驚いてたたらを踏んだ。
老人は少女の前に出ると、軽く頭を下げる。
「申し訳ありません、私の客です。ご不満とは存じますが、私の顔に免じてお引取りいただけませんかな」
とは言ったものの、異物には概して厳しい上、体面を気にする山の住民である。彼とてこの程度で帰ってくれるとは思え なかったし、実際気配は一向に減る気配を見せない。老人のほう、と吐いた息が透明な世界を色付け、僅かの間ゆらゆらと漂い、消えた。
その瞬間、眼前の隠居翁然とした人物がとんでもない狼であったことを少女は知った。元より針を刺すような冷え切った朝が、今は目の前に刀を突きつけられたような、臓腑の凍りつく空間へと変貌を遂げる。何がどうなったわけでもない、変わったことといえば、ただ眼前の老人が少しばかり眼光を強めただけである。しかしたったそれだけで、老人の背中から発せられる圧倒的な殺気に、少女の心臓は早鐘を打ち、また自分の体毛が全て逆立ったような感覚を受けた。背後でこれなら、正面から相対したときの威圧感は、一体いかほどになろうか。
「……お引取りいただけませんかな」< /p>
口調だけはあくまでも穏やかに、老人が繰り返す。しばしの膠着状態の後、一つ、二つと気配は消えていった。やがて包囲が完全に解かれると、老人は同じようにほう、と吐息をもらし、そしてそれが何かのスイッチであったかのように張り詰めた空気は霧消した。
立ったまま腰を抜かしたようにぼんやりと口を開けていた少女は、振り返って乱暴に押しのけて申し訳ないと謝る老人の姿を見て、ようやく我に返る。それは確かに、数日前に出会った老人そのままであり、今しがた感じた鬼気がなにか幻のように思えてしまった。そうすると少女は、なぜか急に恥ずかしいような気分になって来、紅潮を沈めようとして、より一層頬を赤らめる。こういうのも吊り橋効果と言うのかしらんと、少女の残った冷静さが心中で呟い� �。
「こちらこそ、その……また助けていただいたようで」
老人は、呵呵、と大笑した。
「なに、あんなもの、ただの挨拶のようなものです」
「しかし、全く一触即発のような空気でしたが」
「あれは、『好戦的な老人に脅されて、平和を愛する私達は仕方なく退いた』という形を作るための、双方分かった上での芝居だと思ってくだされ」
「はぁ」
根が素直な少女にはよく分からぬ世界である。小首をかしげる仕草の愛らしさに、老人は目を細めた。
「天狗は面子にこだわりますからな。このような面倒な手続きを踏まなければ、誰も帰るとは言い出せぬのですよ」
「そういうものですか、よく分かりませんが……しかし、それにしても」
少女は、老人の全身を無遠慮にねめまわ� �。どう見ても老人であり、何度見ても老人であり、やっぱり結論として老人であった。老人がやたらと強いのは話の中だけかと思っていたが、その認識は改めなければならないのだろうか。
「ご期待に沿えず申し訳ないのですが、あれはただの虚勢に過ぎませぬな。腰は曲がり、膝は曲がらずでは戦える道理もなし。あのまま彼らが襲い掛かってきたなら、是非も無く叩きのめされていたでしょうよ」
視線から少女の感情を読み取り、老人は喉の奥で笑い声を立てた。それは嘘ではなく、かつて並び立つ者無しとまで言われた彼にも、歳月は平等に刻まれる。せめて気だけは若くありたいと願う、それがもう老いた何よりの証左。それに気付いてから彼は、衰えに抗うことをやめた。
それに、老いたおかげで得たものも� �る――例えば、悪びれもせず馬鹿馬鹿しい小芝居を打つ老獪さとか。そう思い至って、彼は思わず心中で苦笑した。奸智などというものは、まさに若い自分が一番嫌った事柄である。してみると、得たものと失ったものは、案外釣り合いが取れているのかもしれなかった。
「はぁ……」
まだ納得しかねる様子で、少女は首をひねる。例え今はそうであったとしても、あの思い返すだけで身の毛もよだつような強烈な気は余人に放てるものとも思えない。それこそ、少女の主である、あの恐ろしい吸血鬼にも匹敵せんばかりである。一体その境地に至るまで、彼はいかほどの修羅場を潜り抜けてきたのだろうかと、彼女は老人に深く刻まれた年輪を見つめながら夢想した。
"トップ1の結果は"マッコールソフィーの取得を要請「さて、今日はまたいかなるご用件ですかな。よもや再び迷ったということもありますまい」
この話題はもう終わりとばかりに、僅かに目を細めて老人が言った。その言葉に、危うく本来の目的を忘れかけていた少女は、慌てて抱えていた包みを紐解いた。
「……ふむ」
少女が着ている外套に、なにやら面映いものを感じながら、老人は彼女の手から、竹細工の籠を受け取る。
「開けてもよろしいか?」
「はい」
甘く香ばしい匂いを漂わせる籠の蓋を取ると、包み紙の隙間から菓子らしきものが顔を見せた。開くと、右に月餅、左にクッキーというよく分からない取り合わ� �である。
「甘味ですか」
「甘いもの、苦手ですか」
心配そうに問いかける少女に、老人は相好を崩した。
「いえ、好物です。有難くいただきましょう」
その言葉に、少女は露骨に安堵した表情を見せる。あまりにも分かりやすく、ころころと表情を変える少女に、老人は頬のしわを深くした。
「良かったあ。受け取ってもらえなかったらどうしようと思っていました」
「金品の類でしたら、お返ししていましたがな」
「私も、そうなるような気がして、それはやめたんです」
「しかし、私のような老人に贈るにしては、随分と可愛らしい品ですな」
籠からクッキーを一つつまみ、苦笑しつつ呟く。一口大のそれは焦茶の二色に塗り分けられ、形も星型や丸型と、子供が喜びそうな� �だった。年寄りの男が食べるには、多少の気恥ずかしさが付きまとう。
「いやその、そっちは私の同僚の作なんですが。ただ男の人と言っただけで、年齢を伝えるのをすっかり……あ、でも! 味のほうは保障します、ほんと」
「はは、それは迂闊でしたな。そう言えば、あの後は無事に帰ることができたのですか?」
籠の蓋を閉じながら、老人が尋ねる。
「ええ、ちょっと怒られちゃいましたけど。あなたのお世話になったことを同僚に話したら、主に恥を掻かせるわけにはいかないから持ってけって言われて、あ、でも、別に同僚の話が無くても、お礼には伺うつもりでしたけど」
「それでまた、追いまくられたと」
「うぅっ」
頭を抱えて懊悩する少女に、老人は声には出さず肩を弾ませた。� �の少女にはどこか、からかって遊びたくさせるところがある。きっと奉公先でも、このようにからかわれながら愛されているのだろうと老人は思ったところで、ふと脳裏に、記憶の中の幼い瞳が重なった。
「だってあいつら、やたら排他的だし、やたら足速いし……あ、どうかしましたか?」
「……いえ、なに、少しばかり寒さが骨身に響いただけです。ずっと屋根の上で話すのもなんでしょう、安い茶でよければ出しますぞ」
老人が僅かに表へ出した苦味を目ざとく見つけ、ぶつぶつと弁明とも愚痴ともつかないことを口走っていた少女は、何か調子でも崩したかと彼を覗き込む。不覚への後悔と共に老人は、瞬時に感情を記憶の扉の向こうへ追いやる。自分でもごまかすのが下手だと思いながら、彼は少女を誘った。
幸いにして、少女はあまり深く物事を考えないか、あるいは疑念を表に出さない程度の良識を持っているようだった。
「しかし、私が持ってきた物を、私が食べるというのも、どうも」
「何を仰る、これが一人で食べきれる量ですかな」
老人は、そう言いながら竹の籠から月餅を手に取った。二つに割れば、甘い香りが鼻を抜ける。山奥の一人暮らしでは、焼き菓子を食べる機会など絶えてないものである。老人はしばしそのまま、久しい感覚を堪能した。
「ほう」
片方を口にすると、小豆餡の品の良い甘さが広がり、見た目以上に大目の水分がしっとりとした食感を舌に伝える。
「お口に合いましたか? 実は私が作ったんですよ、それ」
愛想良く笑う少女に、老人は片手に残ったもう半� ��を口に運ぶことで答えた。それを見て少女がより笑みを深くしたところで、老人の半身が湯呑みをふよふよと浮かばせてやって来、二人がそれを受け取ると、熱いのはたまらんとばかりに天井のほうへと逃げていった。
そのまま何をするでもなく浮かんでいる半身を見上げ、少女が尋ねた。
「先日も見かけましたけど、あの幽霊は同居人さんですか? それとも使い魔か何か?」
老人は熱い茶をすすって月餅を流し込むと、その問いに僅かに口の端を吊り上げた。
「いえ、少々変わった体でしてな。あれもまた、私なのです」
「はぁ……?」
理解できずに目を白黒させる少女を尻目に、老人は涼しい顔で湯呑みを傾ける。
「生と言うには死に近く、さりとて死と言うには生に近く。このどちらつか ずの半端な体が、未熟な私にはふさわしいということでしょうな」
その半身といえば、若いころは使い魔扱いされると腹を立てて暴れだしたものだが、やはり幽霊といえど年輪を経ると丸くなるのか、それともただ腰が重くなっただけか、どこ吹く風とぼんやり佇んでいる。さよう、と老人は思う。我が身はその出自からして半端者であって、それは自分が自分である限り永劫に変わらないのである。人と妖、才をどちらにも振れるということは、振り幅が半分に過ぎないということでもある。
それに気付くまで随分かかったし、だからこそ出来ることもあるということに気付くには更にかかった。人生は何かをなすにはあまりに短いという警句は正しくないと老人は思っている。なぜなら、彼の生はただの人よりはかなり長� ��が、気付いたときにはもう遅かったからである。そのときには、もう既に思い出の貝塚が自身を圧迫し、何かをしようと思うと、そこから発掘される昔の石器が猛る心を慰めてしまうのだ。結局は長短ではなく、才覚と努力なのである。そして自分には二つとも足りなかった。少なくとも老人はそう考えている。
「はぁ、よく分かりませんが。分身の術みたいなものだと思っておきます」
「中々的確な表現です」
苦笑しながら、老人は今度はクッキーを手に取り、また少女にも勧める。少女は表面上渋りつつも、実は食べたくてたまらなかったという顔を見せ、いそいそとクッキーをほおばると、幸せそうに目を細めた。この感覚は肉を持つ身でなければ共有できぬだろうよ、と栓も無い優越感を半身に対して抱き、老� �は湯呑みの残りを喉に流し込んだ。
「あ」
発せされた声に少女を見遣ると、彼女の視線が、壁へ無造作に立てかけられていた二本の刀を捉えている。こちらから聞くのは失礼だろうけど、でも興味深い――こっそりと、しかしバレバレにこちらと刀を見比べる少女。その考えていることが手に取るように伝わってきて、老人は苦笑しつつ腕を伸ばし、大小を引き寄せた。
「……前回は夜でしたからな。気付かなくとも無理はないでしょう」
そう言いつつ老人は埃を払い、横に座る少女へとそれらを無造作に放る。慌てて掴んだ少女は、しかしその軽さに眉をひそめた。視線で許しを請うてから抜き放つと、そこにあったのはおよそ切れ味とは程遠いような、生白い刀身。
「……竹光」
「左様」
か� �からと老人は笑い、言葉を続ける。
「弘法筆を選ばず……というのは建前で、単にもう、重たい刀を振り回すだけの膂力がありませぬゆえな。この竹光にしたところで、指先に力が入らず、振ればすっぽ抜ける有様。年老いたくは無いものです」
「……老い、ですか」
少女はどう言ったものか分からず、オウム返しに呟くと、再び刀身を鞘に収めた。一面に漆が塗られただけの、装飾も何も無い無骨なその鞘は、なんとはなしに老人そのものを象徴しているように思えた。
「私もいつかは死ぬのでしょうが――それは病か敗死か――なんにせよ、老いというのは良く分かりません。老いるとは、一体どのような感覚なのでしょうか」
妖怪である彼女は生まれたときからこの姿であり、そしておそらく死ぬとき� ��この姿であろう。鞘の表面を撫でながら、知らず、疑問が口をついた。言ってから、ひょっとして自分は今物凄く失礼なことを聞いたのではないかということに気付き、おそるおそる老人のほうを見遣るが、意に反し、彼はいたって穏やかな表情であった。
「さて――あまりにも身近な感覚ゆえ、説明しろと言われても困ってしまいますがな……」
老人はしばし顎をなでつけながら、考える風を見せ、やがて何か思いついたのか、少女のほうへ顔を向けて口を開いた。
「星は巡り――季節もまた巡る。それと同じように、命もまた――巡ってゆきますな。当たり前のことであり、それに一々感傷を抱くのは、人くらいのものでしょうか」
こくりとうなずく少女に、老人は僅かに目を細める。
「今でこそ、この ように枯れかけておりますが、かつてはこの私にも、少年時代というものがありましてな。そのころは、年月を経るごとに、自分が成長していくような気がして、年が明けるのを心待ちにしていたものです」
この水墨画から抜け出してきたような老人にも紅顔の童子だったころがあったのかと思うと、考えてみれば当たり前のことなのだが、それが妙に面白く、少女は頬を緩ませた。考えていることが分かったのか、老人も同じように頬を緩ませたが、すぐにどこか遠い場所を眺めているような目をすると、話を続ける。
「それが――いつからでしょうな、季節の巡りが怖くなり、月の巡りが怖くなり、とうとう陽が巡るのさえも怖くなりました。日を経るごとに肉は硬直し、骨は細り、目はかすんでゆくのです。またそれが� �気に来るのではなく、気付いたら今までできたことができなくなっているのだから、恐ろしい」
若者が歳をとるのは成長と言うはずなのに、一体その境界はどの辺にあったのだろうと老人は思ったが、それは老化と同じように、気付いたらそうだったとしか言いようがなかった。ただ、肉体的な境界はともかく、精神的な境界はすぐに思いついた――悲しいことに。
また開きかけた扉を、一息ついて閉じる。薄く微笑んで、老人はまとめた。
「何事も時と共に変化するものです――が、その変化を厭うようになるのが、老化というものだと言えるでしょうな」
「変化、ですか」
刀の鞘を見つめながら、少女は呟いた。目を凝らしてみれば、その漆塗りは、一部分だけ剥げかかっており、そしてそれは掌程度の 大きさであるように思えた。どれほどの長きに渡って、老人がこの刀を用いてきたのか、無論少女には知るよしも無いが、まさか始めから竹光であったということもあるまい。鉄が竹になるに至った変化とは、一体いかなるものであったのか。
そもそも、考えてみれば、このような深山に老人が一人で住んでいるということ自体が怪しい。多少人とは異なっているのかもしれないが、それでもこの妖怪の山に住もうと思う人間など、「訳あり」以外にいるはずも無いのである。老人の所作からは古武士然とした威厳が感じられ、先ほどの殺気といい、只者とも思えなかった。おそらく、昔は名の通った剣士だったのだろうと、少女は思う。
「もう、剣はしないのですか」
「ですから、しないのではなく、出来ぬのです。肉体 的な問題もありますし、長いこと使っていないから、もう型を忘れてしまったかもしれませんな」
老人は少女の手から刀を取る。しかしその手触りは、この家にあるほかの何よりも馴染み、水面を波立たせる一陣の風のように、彼の心をざわつかせた。使う気がないなら捨ててしまえば良いのに、結局手放せずにいる。もはや、彼という人と、剣とがどうしようもなく一体化してしまっているのかもしれなかった。ひそかに嘆じ、元通り無造作に立てかける。
少女はどこと無く不満げであり、それはおそらく、彼女自身もまた何らかの武術を嗜んでいるからだろう、と老人は思った。丸みを帯びながらも引き締まった身体や、常に重心を崩すことの無い動作からそれが読み取れる。かつてなら一勝負願ったのかもしれないが、� ��はいたずらに血気を逸らせたところで、という制動が先に来る。それが角が取れたということなのか、老醜を晒したくないという自己保身なのかは、彼自身にも断定できなかったが。
「使っていない……とは、それはまた、どうして」
「私は、ただの剣であれば良い、他には何も必要ないと……そう思っていましたが。世の中には斬れぬものもありますな。それを知ったとき、自分は今まで、一体何をしていたのだろうと、そんな風に思ったのですよ」
その声は平静であり、装った様子も、無理に押し殺している様子も見えなかったが、少女には、それがかえって彼の悔恨の深さ、忸怩たる思いの強さであるように感じられた。
「……それは、一体」
それは、彼にとって決していい記憶ではなく、友誼を深め たわけでもない自分が聞くべきことではないと頭では分かっていたものの、少女はなぜか、どうしても聞かずにはいられなかった。あるいはそれは、武人として道を求める者としての同調から来る、彼女自身の根幹に関わる疑念だからなのかもしれなかった。なぜなら彼女には、歩んできた道を捨てることなど、想像も付かなかったから。
それを察したのか、老人は特に気分を害した風も無く、少し目をすがめると、とつとつと語りだした。
「昔……無頼を気取っていたころ、とあるお方の、ご厄介になる機会がありました。そこで私は初めて、絆というものを知ったのです。そこには、全てがありました――少なくとも、当時の私は、そう思ったものです」
美しい思い出をなぞるように、または淀んだ澱を吐き出すかの ように、知らず、彼は衣服の上から自分の胸を撫でる。指の腹に感じられる肋骨の凹凸が、過ぎし日との隔絶をより一層思わせた。
「その当時の私は、世の中にあるもの、斬れぬものは無いと思っておりましたな。我が身は一本の剣であればよい。大妖が鍛えた大業物と秘伝の霊刀、それにこの身この技が加われば――この世界を脅かすもの、全てを切り伏せられる、と。ですが」
老人は僅かに瞑目した後、小さく嘆じた。
「なんの役にも、立ちませなんだ」
その短い、感情らしい感情も読み取れない言葉の背後に、宇宙のような無明を見、少女は全身の血が引いたような感覚を受けた。
「そして……まあ、色々あって、今に至るわけですな。それからは、剣は庭木を切るくらいにしか使っておりません」
< p> 酷く簡潔に人生の重みを語り切った老人を、少女は畏怖の瞳で見つめる。彼はその時斬れなかったし、おそらく斬れたとしても、それは何の救いにもならなかったのだろう。
そこで彼は折ったのであり、また折れたのだ。
「……もったいない」
思わず少女が口にした言葉に、老人は瞬間目を丸くするが、すぐに肩を震わせ、喉の奥で笑う。
「あなたは面白い人だ」
「みんなそう言うんですけど、誉めてないですよね、それ」
「いや、失礼」
憮然とする少女がおかしく、老人は更に大きく体を弾ませた。
「詰まらない話をいたしました。……もし、あなたが、自分ではない、何か他のもののために武の道を行かれるというのであれば、必要なものはなんなのか、ゆめ違えることの無いよ うに注意すると良いでしょうな。や、老人の戯言と思ってくれて構いませぬが」
「……いえ、肝に銘じます」
頭を下げる少女に、らしくも無い説教をしてしまったと苦笑いを浮かべ、老人はほとんど手付かずだった竹籠に手を伸ばした。
空を切った。
見てみると空だった。
空っぽの空間が場を支配し、少女に視線を向ければ、頭を下げたままの少女の頬につう、と水滴が伝う。
圧縮された空気のせめぎ合いは、しかし割とすぐに決着がついた。
「すいません、食べちゃいました」
「……まあ、若者が健啖なのは、良いことでしょう」
「えーと、その。なにか! なにかします!」
「いや、別に……」
「あの、あれです、私。気功! 気功が出来ます!」
「聞いてないですな 」
必死な形相で――そんなに必死になるくらいなら食べなければよかったのに、と老人は思った――少女は老人ににじり寄ると、腕を伸ばし、膝に手をかざした。老人が意図を問う前に、少女はそのまま瞳を閉じ、長く息を吐く。
「……ふむ」
少女の顔に真剣なものを感じ、老人は黙って彼女に任せることにした。数回の呼吸が繰り返されるうちに、手をかざされた部分が熱を帯びてきたように感じられ、同時に、枯れかけの木に新芽が萌え出でようとするような生命の脈動を覚える。少女はそれを数分かけて行い、更にもう片方の膝と、腰にも同じことを繰り返した。
「……はい。どうでしょうか。結構違うと思うんですけど」
最後に背を軽くなで、少女は微笑む。言われるまでも無く、老人は節々の疼� �が納まっていることを自覚していた。その他にも、全身の体温が上がったのか、先ほどに比べて、寒さが気にならない。また、呼吸もより深くなっているように思える。久しく絶えていた活力のようなものが、体中を巡っているように感じられた。
「大したものですな。どういった原理でしょう」
少女は得意げに指を一本立てた。
「気とは命の血脈です。呼吸と精神集中によって自身の気を高め、先から放出することによって、生命力を分け与え、また相手の気を活性化させることも出来るのです」
「ほう。ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「もっとも、一時的なものですから……継続しないと、あまり意味は無いんですが」
子どもだけが許可されていエクスプローダ後頭部を掻きながら、少女は問わず語りに但し置く。だから、続いての言葉がすらりと出てきたことに、思うところがあったとはいえ、少女は言った後に自分でとても驚いた。
「だから、また来てもいいですか?」
◆
紅魔館の門番と言えば、その溌剌とした美貌や幻想郷一とも称される格闘技術もさることながら、何よりも、「まるで根が生えているかのように、いつ行っても門前に立っている」ということで有名であった。実際には彼女とて、食事も取れば眠りもするのだが、その常識離れした危機察知能力が、来襲者の訪れを即座に気付かせるのだった。だから結果として、彼女はいついかなるときも門番をしているように見える。ちな� ��にその危機察知能力は、なぜか彼女自身への危機に対しては発動されず、素直に思ったことを口に出しては、上司や主に怒られるという場面は、もはや紅魔館の名物として、住人全体に認知されているものであった。
ところが、最近になり、時折彼女が門前からいなくなることがあった。
一体どこに行っているのか、彼女は語ろうとはしないが、メイドたちの間では「あの大雪の日に男物のコートを着て帰ってきてからだ」「雪山のロマンスね!」「やっぱり男か」「隊長をたぶらかす男なんて全員死ね」などと、まことしやかな噂が流れている。それに対して彼女は、別段否定するでもなく「ロマンスって言うかまあ、あえて言うとするならロマンスグレーよね」などと発言するので、噂は更に噂を呼び「門番は年上好み」� ��いや、もしかしてパパになってもらっているのでは?」「え、親子?」「そっちじゃねぇよガキ」などと、収拾のつかないことになりつつあった。彼女に青い思慕を寄せるメイドがショックで寝込むに至り、とうとう看過できなくなった侍従長は門番を呼んで詳しい事情を聞いた。彼女は、てっきり「もう行くな」と言われるとばかり思っていたが、侍従長は老人の詳しい風体を聞くと、一瞬何か言いたそうな表情を浮かべたが、すぐに唇を噛むと、まあほどほどにしときなさいと告げて席を立ったのだった。
上司であり友人でもある侍従長の態度は、少女には不可解なものであったが、訪問を止められなかったことは素直に嬉しかった。何か知っているのだろう侍従長が言わなかったということは、それは言うべきではないと判断 したということ。訪問を重ねても、意識的にか無意識にか、老人の過去についての話はあれ以上にされることは無かったし、少女もまた聞こうとはしなかった。老木を想起させる老人の、刻まれた皺は年輪であり、またその口にする言は枝葉であった。どれほど落ち着かない日でも、彼といると不思議と平静を取り戻し、また心に何か、言葉に出来ない確固としたものが、芯となって自分が鍛えられるような気がする。彼は多弁というわけではなかったが、ただ向かい合って座っているだけで、とても大きなものに庇護されているような、そんな気が少女にはするのだった。
それに、いつ行っても老人以外は誰もいないので、ある意味非常に気楽だった。あまりに誰も訪れないその生活は、隠居と言うよりはむしろ幽居のようだった� �
「何考えてるのあなたは、本当に」
だから、冬の寒さも少し和らいできたように感じられる穏やかな日、降り立った直後にいきなり中から女性の声が聞こえて来、少女は驚きと共に耳をそばだてた。
「久々に会ったと思ったら、いきなりそれですか」
炉辺に薪をくべた姿勢のまま、老人は苦笑した。正面、視線の先には、空間に生じた亀裂から上半身を覗かせた女性が、責めるような目で彼をにらんでいる。
「紫殿」
自然体を崩さない老人とは対照的に、女性――紫は、苛々とした様子で板敷きの床に降り立った。
「見れば分かると思うけど、私は今、とても怒っているわ」
「そのようですな」
「理由も言わなくても分かるわね? でも言うわよ。何考えてるの」
「二度も言わず� �も、聞こえておりますよ。ありがたいことに、耳のほうはまだ衰えておりませんでな」
ぱちりと、手に持ったままの薪、その火にくべた部分が爆ぜ、その存在を忘れていたかのように老人は、驚いた風に手を離した。
「私が何を考えているのか、それこそ、紫殿には言わずとも分かっておりましょう」
「ええ、そうね。あなたならそのうち、きっとこうするんじゃないかって、ずっと危惧してた。いい、危惧してたのよ? このわ・た・し・が。ほんとにもう見事にいなくなっちゃって。全く気付きもしなかったわよ。教えてあげましょうか。えぇ? 爺一人いなくなっただけで妙にがらあんとして見える部屋の真ん中で! ポン刀二本抱えて半泣きの妖夢の頭を撫でながら! 私の目を見て困ったように笑う幽々子が! 一体なんて言ったか」
矢継ぎ早にまくし立てながら、紫は足音も荒く炉辺を回り込む。老人が首を向けるまでもなく、紫は彼の襟首を掴むと、力任せに引き寄せた。
「戻りなさい。今すぐ」
「お断りいたします」
奥歯をかみ締める紫と揺るがぬ老人、そのまま数秒の後、紫は大きく息を吐くと掴んでいた手を離し、ぺたんと座り込む。一度下げてから上げた顔からは、眉の逆立ちは消え、どこか見るものを不安にさせるような、とらえどころの無い微笑がたたえられていた。
「そうね、少し脅したくらいで戻るようなあなたじゃないものね。やっと見つけたから、つい興奮しちゃったわ」
「……狭い幻想郷のこと、いつかは見つかると思っておりましたが」
乱れた衣服を、軽く延ばして直しなが ら呟く老人に、紫は唇に弧を描く。
「そうね。でも、人一人探すとなると、幻想郷は狭いようで意外と広いわ。私も、あらかた探しつくして、まだ幻想郷にいるとするならここだろうと思っていたけど、妖怪の山はあんまり入りたい場所じゃないし、天狗やらの邪魔も鬱陶しいし。でも、優秀なうちの藍が見つけてくれたわ。冬眠中だったけど、教えられて飛び起きたわよ。どうして見つけられたと思う?」
理知的で生真面目な狐の式神を思い出しながら、老人はさて、と肩をすくめた。それを見て紫は、唇の三日月を更に深くする。
「通い妻よ。来てるんでしょう? 律儀に毎週毎週」
「……」
「どう考えても似つかわしくない者が頻繁にこんな場所に来るようでは、必然的に目立つ。後をつけてみたら大当� �りよ。藍が気付かなくたって、そのうちおしゃべりな新聞記者あたりがやってきたでしょうよ」
紫の言葉に含まれる嘲笑するような気配に、老人は瞑目し鼻息を漏らした。外見こそ笑っているが、紫は確実に、まだ大変腹を立てている。しかし、原因は完全に自分にあるということは分かっていながらも、老人はなぜか、罪悪感を全く覚えないのだった。それは、自分の信念によるものか、年寄ゆえの厚顔さか、はたまた「通い妻」の魅力ゆえか。確かなのは、それら全てが紫の怒りの源泉であり、また自分のこういう態度が、紫の怒りの炎に油を注いでいるということだけだった。
「……一応言っておきますが、男女の関係はありませんぞ」
「そんなことはどうだっていいのよ。いえ、むしろ彼女を引き入れて睦んでい るというなら、まだ良かったわ。私は幽々子になんて言えばいいのよ。『あなたがお探しの老人、毎週可愛い女の子が家にやってきては、何をするでもなく楽しく談笑して帰っていってます』って?」
「……嬢にはもう、私は必要ありますまい」
「必要ないかどうかなんて、あなたが決めていいことじゃないわ。それは幽々子が決めることよ」
老人の反論を、紫はぴしゃりと押さえ込んだ。
「妖夢は毎朝、欠かさずに稽古をしているわ。素振りして、型を取って、そして時々目を瞑るの。幽々子はそれを縁側から、お茶をすすりながら見て、そしてやっぱり、時々目を瞑る。彼女達が、その目蓋の裏に何を見ているか、あなたに分かって?」
その朝の情景を、老人はいとも簡単に想像することが出来た。なぜ� �ら、以前は、彼もまたその景色の中にいたからである。強い郷愁が胸に去来し、老人は軽く呻き声を立てた。
「会いたい? 会いたいでしょうね。あなたの考えていることなんて、手に取るように分かるわ」
「分かっては、おらぬでしょうよ……いや、分かってはいても、理解はしていない、と言うべきでしょうか」
老人の不意の反論に、紫は瞳の光を弱める。
「……そうね。理解できないわ。妖怪には理解できない……人間なら、出来るのかしらね」
紫の目を伏せ、うつむいた横顔は、老人の彼女との長い付き合いの中でも、数えるほどしか見たことのないものだった。
「死んだ人間に――千年も前に死んだ人間に――義理立てするなんて、私には分からないわ」
「……もう、誰もおらぬのです� �あの温もりを、覚えている者は」
「私がいるわ。私は知っている、私は覚えている。それでいいじゃないの」
懇願するような調子の紫に、老人はしかし、緩やかに首を振った。
「紫殿には、責任はありませぬ。あの時、嬢を止めることが出来なかった、責任は無いのです。あらゆるものから守ってみせると豪語して、そしてただ一人無様に生き残った、私にしか」
「――頑固者――!」
「年寄りですゆえな」
「嘘仰い。前からそうだったわ」
弱々しく舌打ちする紫に、老人は、同じく弱々しく笑みを浮かべた。
「……あなたが抱いているのは、断じてあの温もりなんかじゃないわ。焼いた石を懐炉にしたとて、時とともに熱は失せる。あなたは、移った自分の体温を、石に残った温もりと勘違� ��しているだけよ」
「かも、しれませぬな。しかし、だとしても、私はその石を、新たな火で熱することは出来なかった。それだけのことなのです」
「そう……あなたの心は、まだあそこにいるのね……」
紫は再び、大きく息を吐いた。
「見上げた忠義だわ。非常識にも程がある……誰も幸せにしないような忠義なんて、正しいはずが……って、もう! よりによってこの私に、常識とか正しいとか言わせないで頂戴な!」
「それだけ、紫殿にとって、嬢が大切だということでしょうな」
「ええ、大切よ。当たり前でしょう、友達だもの」
紫はそう言うと立ち上がり、老人を見据える。
「この頑固爺に問答なんて最初から無意味だって、分かっていたのにね。明日、また来るわ。首に縄つけてで も引っ張っていく。主張があるというなら、幽々子と妖夢の前で、存分にその屁理屈こね回しなさい」
「……てっきり、今すぐにでも連れて行かれるかと、そう思っていましたが」
老人がそう言うと、紫はふいと、入口のほうへ顔を向けた。
「今日のところは、彼女に免じて、引いてあげるわ。言いたいことがあるなら言っておきなさい――」
壁の向こうに気配を感じ、老人もまた、そちらへ首を向ける。
「――妖忌」
久しく誰も言うことの無かったその名に、老人――妖忌は首を戻すが、そこにはもう、誰もいなかった。
「妖忌さん、と仰ったのですね」
入ってきたはいいものの何を言ったものか分からず、結局少女が口にしたのは、このような言葉であった。改めて考えてみれば、今� �で互いの名前も知らなかったのかと、この関係が如何に微妙な天秤の上に成り立ってきたものだったのか、心中で大きく歎ずる。
「……あの後、しばらくしてから、ですな。私は生死の結界を乗り越えて、冥界へと赴きました。嬢がそこにいると聞いた――いや、不敬にも半ば脅すようにして、聞き出したからです」
今まで語ろうとしなかった昔を唐突に語りだす妖忌に、少女の反応が一瞬遅れる。あの後、というのはつまり、何か大きな事が起きて、そして彼が何も出来なかったという、あの時のことだろう。少女は慌てて居住まいを正すと、一言一句も漏らさないように、耳へ注力を傾けた。
「しかし嬢は、全てを忘れていたのです……特例として死の理を曲げた、その代償なのでしょうかな」
妖忌は少女に� �りかける姿勢をとってはいるが、その実少女に語りかけてはいない。
「それでも良いと最初は思いました。それでも嬢には違いあるまいと。妖夢というのは孫でしてな。三人で、また作り直せばいいと、そんなように、思っておりましたが……抜け落ちたものを埋めるには、どうしてもそれは、足りなかったのです」
彼は、己自身の記憶と向き合っている。
「あの絆を私は覚えているのに、嬢は忘れている……忘れているのに、同じように笑いかけてくれるのです。その度に、まるでこの家のように、隙間風が吹き込んでくるのが感じられました。そして、自分が老いたということをはっきり自覚した夜、私は逃げ出したのです。私は過去に生き、孫は嬢と未来を生きてほしいと。私はそうして門を閉ざしたのです」
愚かな選択だと、少女は思った。
愚直なまでの、過去への想い、過去への後悔がゆえに、彼はどうしても、新たな幸せを掴むことを潔しとしなかったのだろう。
「……あなたは、ずっとそうして、門を守っているのですね」
妖忌は、少女の言に深く頷く。
「もはや、誰一人訪れることの無い、門です」
それは思い出の檻。彼は自ら望んで囚人となることで、過去に根を這わす樹となった。新たに花を咲かすことも無い、ただ生きて果てるだけの樹である。
しかし。
「でも、私は来ちゃいましたけどね」
「ですな。本来なら、また来てもいいかと聞かれた時点で、私は断らなければならなかった。誰も来ない門を守るために逐電したというのに、客を迎えていては栓も無い。紫殿に叱られる� �も当然ですな」
「じゃあ、どうして断らなかったんです?」
少女の疑問に、妖忌は相好を崩した。
「存外に楽しかったのですよ、あなたと過ごす時間が」
「はぁ、いや、そうですか。まあ、私も楽しかったですが」
ストレートに告げられ、なにやら愛の告白のようだと、少女は照れたように頬を掻いた。
「……それで、どうするんです?」
「さて、どうしますかな」
とぼけたように、妖忌は腕を組む。それはふざけているというよりも、本当に考えていないようであった。
「おとなしく帰る気にはなれず、さりとて紫殿とまともにやりあって勝てるとも思えず」
「やっぱり勝てませんか」
「昔でしたら何とかなったやもしれませぬが」
拳を握ったり開いたりしながら、 妖忌は言う。
「最近は気功のおかげですかな、随分と調子がいい。とは言え、彼女は生半可な相手ではありませぬゆえ」
「……」
「あなたには感謝しております」
突然頭を下げられて、少女は狼狽した。
「ちょ、え、な、なんですか」
「老人の無聊を慰めてくださったこと、まことに感謝いたします」
「いや、元はと言えばそちらの恩義に応えるものですし、それに、私は、いえ、私がやりたくてやったんです」
「それでもです。この件は、元は自分の未熟が原因。ですから、後は自分で何とかするのが筋というものでしょう」
妖忌は、湖面のように凪いだ瞳で、少女に告げた。
「自業自得。なれば、自分の業も自分で解消せねばなりますまい」
◆
「って言われてもねぇ。� ��っちにも都合ってものがあるのにさぁ」
翌日もまた、空は晴れ渡り、春の足音がすぐそこから聞こえてくるような、穏やかな日であった。
「そういや、告春の妖精って、毎年ここからやってきて、ここに帰るのよね。どこかに家があるのかなぁ」
一人ぶつぶつと呟きながら、少女は周囲の様子を検分する。妖忌の家からはやや離れた、少し開けた場所である。幾度となく通った道ではあるが、上空を飛ぶのと、こうして地面に立つのでは、文字通り雲泥の差がある。乱立する木立が身を隠す役には立ちそうであったが、溶けかかった雪面は足を取られかねない危険性をはらんでいる。
「地形効果は、有利不利が五分ってところかしら」
「何を考えているの?」
昨日も聞いたような声に少女が振り向く� �、ふわりと降り立つ女性の姿。
「私が、あなたを無視して妖忌のところへ行く、とは思わなかったのかしら。空間移動できることは知っているでしょう」
和洋中、全てが渾然となったようなよく分からない服装は、八雲紫には不思議と似合う。
少女は、内心の驚きを隠し、不敵に笑いかけた。
「でも、来た。あんたの考えなんてさっぱり分からないけど、でも、あんたは『こういうの』を無視する性格じゃない」
「理解してくれて嬉しいわ」
その言葉と裏腹に、紫は片眉を上げ、ふん、と鼻息を漏らす。
「どこかで見たようなコート着ちゃって……妖忌のことだから、もう来るなとか、後は自分で何とかするとか言ったでしょうに。何あなた、ああいう男が好みなわけ?」
「そのようなくだら ない感情じゃないわ」
「へえ。なら、なんだというの」
少女は、右手を胸に当てた。目には見えないがそこには、「芯」のような何かの存在が確かに感じ取られ、それだけで、高鳴る動悸が静まり、代わって無限の勇気が沸きあがってくるのだった。
「存外に楽しかった、と言ってくれたもので」
「……それだけ?」
「だとしたら?」
拍子抜けしたような紫の顔に、少女はなにやら痛快な気分を感じる。紫に対して一足跳び退ると、水分の多い雪が、ぐしゃり、と湿った音を立てた。
「そのようなちっぽけな縁で、私達の物語に介入するなど、笑止千万。その思い上がりを、正してあげましょう」
ここで、iは、 Star Trekの商品を販売するのですか?「あんたこそ、門番の心意気を舐めないでほしいわね。あんたは昨日、妖怪には分からないって言ったけど、私にだけは、きっと分かる」
そのまま少女は、右足を後ろに半身となり、腕を直角に曲げる。右腕を天、左腕を地とし、指先から迸る闘気が、小ぶりの枝々を揺らし、発せられる生命の熱が足元の雪を溶かし、ぬかるんだ大地に波紋を作った。
「……ぽっと出の妖怪に、私が一番理解してますって言われてもねぇ」
彼我の距離は三間ほど、困り顔で紫は日傘を閉じ、先端で二三度、軽く地を突付く。途端に和やかな昼の空気が異質なものへと変わり、周囲の自然全体が、違和感にきしみ、ざわついているように思える。向かい合うだけで気力が削がれそうな圧迫感に、少女� �息苦しさを覚えた。
元より、妖怪としての格が圧倒的に違うということは折込み済みであった。脅威というのであれば、彼女の主である吸血鬼や、妖忌から受けた殺気も十分に恐ろしかったが、それでもなお、この妖怪が発する気配は、何かが根本的に違う。あえて言うとするのであれば、強いとか弱いとか、勝つとか負けるとか、そういう次元とは異なる、夜の闇がひたひたと迫ってくるような「どうしようもなさ」。この地に住む者、一体誰が、夜が来るのを止められるだろうか。多少引き伸ばしたところで、どうにもなるまい。全てはその前に、ただ従容として受け入れるしかないのだ。
「私が勝ったら、退いてくれるわね?」
「出来るとは思えないけど……ま、いいわ」
八雲紫、その夜が、彼女の前に降り� ��くる。
「……動かない。そうね、あなたはそこに立ちふさがって、私が諦めるのを待てばいい。もしくは焦れて不用意に接近したところを、自慢の武術でのしてしまえばいい。でも、分からないかしら? 動かないということはつまり、嬲り放題と――」
「せやぁぁぁぁぁっ!」
ともすれば震えそうな膝に気合一喝、構えていた腕を、円を描くように捻れば、その渦に沿うように少女の気が凝縮され、見る間に巨大な光球を形作った。両の掌で押し出せば、球はその形を保ったまま、軌跡に電光を残して紫を討たんと迫る。「華厳明星」。千の修練と万の鍛錬の果てに生み出された、気功術の極致とも言えるこの技は、紅魔館でも知るものは少ない、少女の秘技である。少女の遠距離攻撃には見るべきものはないと思っ� �いた紫は、予想外の攻撃に瞬時判断を鈍らす。その隙を逃さず、「華厳明星」の後を追い、少女は駆けた。待っていれば、力の大きさにも、妖術の練度にも劣る自分に勝ちはなく、唯一勝機があるとするならばそれは接近戦に他ならない。ならば、あえてこちらから飛び込むことで、死地に活を見出そうというのが少女の策。「華厳明星」はそのための布石であった。もとより命中は期待していない、姿勢を崩してくれればそれでいい、程度のものである。
だが、紫はやはり、少女の範疇を越えていた。
「ふうん。なかなか綺麗ね」
そう言い、紫が手にした傘で空間を一文字に切ると、何もなかったそこに切れ目が広がり、ぽっかりとした穴が大きく口を開く。底なしの深海のように暗いその穴は、「華厳明星」をたや� �く飲み込むと、逆回しの再生を見るように口を閉じ、そして何事もなかったかのような空間だけが残った。
「くっ!?」
布石があっさりと無効化され、苦し紛れに放った回し蹴りもまた、傘に受け止められ、逆にこちらが体勢を崩す。反撃を警戒して一歩距離を置くが、余裕を見せるためか、紫は動こうとせず、笑うのみである。
「くふふ。大層な口上を並べておいて、そんなもの?」
「まだまだっ!」
とにかく、ある程度接近することには成功したと思いなおし、少女は一度に距離を詰めるべく大地を蹴る。紫は右手の傘を、槍のように突き出してくるが、その動きは彼女から見てあまりに鈍く、また力が入っているとも言い難い。予想通り、八雲紫は格闘戦には疎いと判断した少女は、傘を軽々と避わす� ��、伸びきった腕を横目に、必倒の気を込めて拳を放とうとした。
「なっ!?」
その刹那、完全に回避したはずの傘の先端が眼前に出現し、制動は間に合わないと判断した少女は回避すべく目礼するように首を傾けた。しかし間に合わず、頭頂部に激突した傘は、彼女自身の勢いも相まって眼前に火花を散らし、また脳を揺する。
頭を抱えて転げまわりたいのを食いしばって耐え、少女は紫の脇をすり抜けるようにして前転し、一回転して距離をとったところで背後の紫へと向き直る、いや向き直ろうとした。
顔を上げた瞬間見えたものは、またしても傘の先端。どう考えてもありえない攻撃に、神速の反応でそれを掴むことに成功する。じりじりと押し込んでこようとするそれを両手で押さえながら、少女が振り� �ってみれば、紫は背後を見せたままであった。そこから感じられる圧倒的な余裕に、少女は歯軋りした。
「とりあえず、『人力ホーミングロケットパンチ』と名づけてみました」
正面に視線を戻してみれば、傘がただ宙に浮いているように見える。だがよく目を凝らすと、傘の柄を握る手首、その先に、先ほど見たものと同じような裂け目がある。傘と手はそこから生えているのだった。
これが、八雲紫の持つ隙間の能力、と少女は慄然と思う。空間に裂け目を作って移動できることは知っていたが、体の一部だけでも移動させられるというならば、本当に反則である。それは例えば、真直ぐ撃ったと思った拳がいきなり振り下ろされてくるかもしれないということであり、更に言えばあらゆる格闘技の理論、人体構造� �論理が全く通用しないということでもあるからだ。
しかも恐ろしいことに、これは、彼女本来の持つ能力、そのほんの副次的な作用にしか過ぎないのだった。たまらず、少女は声を上げる。
「えい、あんた一体何なのよ!」
「それはもう、『隙間』の異名を持ち、境界を自在に操る高貴なる女性妖怪よ」
「ハァ?」
「そんな反応しなくたっていいじゃない……」
いじけたような声色で愚痴る紫に、少女はそもそもこの妖怪に常識や正道を問うことが間違いだった、昨日自分でも言ってたじゃない、とうんざりと歎ずる。奇手奇策に対抗する術は、大きく分けて二つある。ひとつは、奇手を逆手に取る、更なる奇策によるカウンター。もうひとつは、圧倒的な力による、策の踏み破りである。言うまでも無� �前者のほうが楽であったが、少女が自分の能力を鑑みるに、奇手などというものはおよそ縁遠いものであり、とは言え圧倒的というならばこっちが圧倒的に踏み破られそうである。
「八方塞じゃないのよ」
「最初からそう言ってるでしょうに」
少し呆れたように、紫は背を向けたまま肩をすくめる。
「私相手に距離は全くの無意味。十間離れてようと拳が届くし、密着状態からでも顎を蹴り上げられる。知らなかったのかしら? 私に弱点は……」
何にも無いのですよ。
背筋を駆け巡る悪寒に慄然としながら少女は、必死に打開策を模索する。
「接近戦に持ち込めば、勝てると思ったのかしら……そうね、愚かなあなたには、自分の拳を自分の顔面に受けてもらいましょうか」
「うるさい!」
少女はそう叫ぶと、片手を傘から放して思い切り殴りつける。前後の力が押し合っていたところに、急に上下のベクトルが加わり、結果として鈍い音とともに、脆くも骨はへし折れた。
「あっ、もう、気に入ってたのに」
「なら攻撃に使わなきゃいいじゃないの」
「使ってこそ道具よ」
日傘の用途は攻撃と言い張り、紫は手首と傘を隙間へ戻した。その合間に少女はきびすを返し、がら空きの背後を見せる紫へと走る。しかしその背中は無視し、再び彼女の脇を過ぎると、自らの間合い限界の距離で止まり、正面に相対した。
「あら、てっきり飛び蹴りでもしてくるかと思ったけど……ああ、そうね、あの位置だと、私のほうが妖忌に近いものね。成る程成る程」
紫は感心したように笑う。戦闘中 とは思えない、あまりにも無防備なその態度は、しかしかえって少女にためらいの心を起こさせる。飛び道具は吸い込まれ、近接戦では変幻自在の攻撃が来るのでは、一体どうやって攻めればよいのか。そうして逡巡している間にも、紫は無慈悲に宣告を行う。
「あなたと遊んでいる時間はあまりないから、さっさと終わらせるわよ」
その手、その指には、いつの間にか一枚のカードがはさまれていた。
「直進しようとする意思は、やがて地を蹴り空を跳び。誰ぞ知らんやいつ越えた、地に足付かぬ接線速――『無限の超高速飛行体』」
口上とともに掲げられたカードが発光し、封じられていた妖力が彼女の空間を作り出すが、そこからは弾の一つも出てこない。よもや失敗かと少女が疑念を抱いていると、紫は緩 やかに腕を正面に向け、少女を指差した。すると背後から一筋の白線が、紫を追い越すように引かれて来、少女の額に焦点が合わさったそれを、特に脅威を感じないながらも一応、身体の軸をずらして回避する。
その刹那、少女の優れた動体視力をもってしても全く知覚出来ない、強烈な速度の「何か」が、白線上を線路を走る汽車のように猛進し、衝撃波が彼女の頬をしたたかに打つとともに、直線上に存在した樹に轟音とともに直撃した。
「げっ」
振り返ってみれば、年輪を重ねた堅牢そうな樹に、直径二寸ほどの穴が見事に開いている。あまりにも高速すぎたせいで、無駄な破壊が生まれていない、実に綺麗な円であった。何の構えもなくそれを受けていたならば、自分の頭も随分と風通しのいいことになっていた だろうことを想像し、少女は体温の低下を自覚する。
「次は二本、行こうかしら」
焼き鳥の追加注文を頼むような気安さで、紫は虚空の二点を突く。するとその点と少女の急所を結ぶように白線が引かれ、慌てて横に転がったところをまたもや高速の何かが通り過ぎ、背後に穴を作った。
「あら身軽ね。じゃあ、倍の四本で」
立ち上がったところを、左胸、額、右肩、左膝の四点に予告が下る。左右どちらにかわしても、右肩か左胸のどちらかに当たるし、同じように転がってかわそうとすれば、左膝を狙ったものが当たる。とっさの判断で、少女は低い姿勢で前方に飛び込んだ。刹那、頭上と眼下に何かが通り過ぎる。少しでもタイミングがずれていれば当たっていただろうと、少女は成功に小さく安堵した。
「頑張るわねぇ。でも、いいのかしらぁ?」
粘着質な声色の嘲りにふと気付いてみれば、少女は先ほどの立ち位置から大きく離れ、妖忌の家までのラインががら空きになっている。あからさまな挑発と分かっていながらも、自分の目的上無視するわけにもいかず、少女は元の場所へと走ろうとした。
「はい、お留守」
いつの間にか、腹部へと白線が引かれている。
「しまっ――」
た、と言い切る暇もなく、金槌で思い切り殴られたような衝撃が少女を襲った。そのあまりの苛烈さに身体は「く」の字に折り曲げられ、そのまま数間ほど後ろに吹き飛ばされる。幸い、硬気功の鎧で身体を守っていたため、穴が開くことは避けられたものの、胃の内容物が全て逆流しそうなのを歯を食いしばって耐える。吐� ��出してしまったほうが楽なのかもしれなかったが。
「ぐっ、がっ……はぁ――」
いつまでも倒れているわけにも行かず、経絡を突くことで無理やり痛みを和らげ、少女は飛び起きて紫を強く見据えた。紫はそれに対して何を言うでもなく、にやにやと少女を見つめながら、戯れのように虚空を突く。再び数本の線が少女を捉えるが、今までと違うのは、その着弾予測点が、明らかに一方へと偏っているところだった。当然、容易に回避できそうであるが、しかしそうすると、少女の位置は、更に妖忌の家から遠ざかる。
つまり、それが嫌なら攻撃を受けろということ。
「なんて性格の悪いっ……!」
そう吐き捨てると少女は半身になり、少しでも攻撃を受ける点を少なくしようとするとともに、腰を落とし� �衝撃に耐えようと試みた。しかしその程度のことは、圧倒的な暴力の前には大した役にも立たず、嵐に揉まれる落ち葉のように、少女の細い身体は宙を舞う。
「かはっ」
飛ばされた先にあった大樹に背中からぶつかり、全身に痺れを伝えるとともに肺から空気が搾り出される。倒れこみそうになるのを、樹に寄りかかることで抑え、何とか呼吸を落ち着かせようとする少女だが、紫がそれを見逃すはずがなかった。
「ぐうっ」
再度打ち込まれる三点の攻撃を、根性で耐える。多少動きづらくても、外套を着ていてよかったと少女は思った。厚手の生地の裏には羊毛が縫い付けてあり、存外に防御の役に立つ――とは言うものの、さすがに跳ね返すほどの効力を期待するのは酷である。呼吸は乱れ、気功は途切れが� �であった。膝は笑い、体の各所が内出血で膨れているのが分かる。ぬるぬるとしたものが顎を伝い、不快に感じて拭ってみると、ぼろぼろの外套の袖が赤黒く染まった。送り主に対する、どうしようもなく申し訳ない気持ちが、少女の中に広がる。
色々酷い目にあってきたけど、こんなきついのは、お嬢様を本気で怒らせちゃったとき以来かなぁと、朦朧とする頭で少女は思った。あれは一体いつのことだったろうか。
「……なんだ、結構最近のことじゃない。なら、割と今回も何とかなるのかな――」
「何とかしたいなら、今すぐに逃げ出せばいい。追いはしないわ」
ざくざくと雪を踏みしめ、無造作に近づきつつ、紫は告げる。
考えてみれば、ここに至って、紫は初めて足を動かしたのだった。自分の実� �では、結局彼女の足一本動かすことが出来なかったかと、皮肉気に少女は口を吊り上げた。
「むしろ、どうして逃げないのかしらね。あなた、人間みたいだってよく言われないかしら? 妖怪とは、自分を何より優先するもの。それが他人のために命張っちゃって、さてこれはどういうことやら」
確かに、よく言われる。特に、よく対比される侍従長が、その辺の妖怪よりよほど妖怪じみていることもあり、相対的に少女の人間臭さがより引き立って見えるのだ。
だが、それはあんたが勘違いしているからだ、と少女は思う。
ここで引いてしまえば、少女は、少女でなくなってしまう。
ここで引いてしまえば、今まで積んできた功夫の意義がすべて瓦解してしまう。
少女は、自分を、自分の想いを何より優先しているのだ。
だから少女は、妖忌を理解できると思った。
彼もまた、自分の想いを、自分そのものよりも上位に置く人間だから。
「……あくまでも逃げない、と」
重い一撃が腹部へと疾り、少女の意識を瞬時途切れさせる。とうとう少女の膝が、掌が地についたのを確認すると、紫はくるりと背を向け、家のほうへと足を進めた。同時にスペルカードが燃え尽き、「無限の超高速飛行体」は、結局それがなんであったのか分からないまま、自らの役目を終えた。
「まあ、何を考えているにせよ、その身体じゃあもう大技の一つも撃てないでしょう。頑張りに免じて放っておいてあげるから、ゆっくりと休みなさい――」
「� ��―るあぁぁぁぁぁっ!」
紫の言葉が終わるか終わらないかのうちに、少女は爆発的に地を蹴って、猛然と紫に迫る。手と膝をついたのは力尽きたのではなく、クラウチングスタートの姿勢をとるフェイク。左の拳を掲げ、無防備に向ける背中へと――
「漱石枕流」
だが、それすらも予測の範疇と、紫は振り返って指で空間を縦に裂く。見る間に空間に裂け目が広がり、しかし今度は攻撃の吸収ではなく。
「では、予告どおり……自分の拳で倒れなさい」
隙間から射出されるのは、眩い輝きの「華厳明星」。少女の真正面に出現したその光球は、今更回避できるほど小さくなく遅くもなく、かといって耐え切れるほど弱くもなく。既に限界に近い少女には、まさしく致命的で。
「はい、チェックメイト� �
「あんたがね」
掲げた左の拳を、紫ではなく、「華厳明星」へとぶつける。吹き飛ばされるでもなく、逆に打ち返すでもなく、光球は当然のようにするりと少女の内部へ吸い込まれていった。
「……あら?」
笑顔を固めて呆ける紫の表情は実に見物であったが、ゆっくりと見物できないのが残念だった。
「捉えた」
「華厳明星」を吸収することで生まれた、「大技一発分」の余裕を、全てここに注ぎ込む。
右足の踏み込み。膝を鋭角に曲げ、紫に対して完全に横を向くように身体を捻る。みしり、という小さな音とともに大地が小さくひび割れ、脚を伝わるその悲鳴を全て右腕に収束させ、地面に対し水平に押し出せば、過たずその掌は柔らかな腹部へと突き刺さる。
「かはっ」
ずん、と鈍い音が響き、この戦いで初めて、紫は悲鳴を漏らした。表面ではなく内臓に衝撃を与える少女の発勁は、いかな紫といえども防げるものではない。ちょうど「無限の超高速飛行体」の攻撃を受けた少女のように、紫は身体を折り、その衝撃のベクトルのまま吹き飛んでいこうとする。
だが、もちろん少女の攻撃は、それで終わりではない。右足を更にもう一歩踏み出し、それを軸として身体を九十度回す。紫に対して完全に背中を向けたその姿勢、それは一見、攻撃にもっとも不向きのようである。だが、彼女にすれば、背中こそはむしろ必殺の武器。両肩という、もっとも広い打撃部分を、勢いのままに突き出す。これら全ての動作が須臾のうちに行われた。結果として� �紫が吹き飛ぶよりも速く、レンガをも紙粘土のように砕く少女の鉄山靠が、その顎を砕きかち上げる。二撃。
そして更なる三撃目を放たんとする少女の動きは止まらない。今度は左足を軸として百八十度回転し、鮮やかな紅の長髪が、円の軌跡を作る。正面に対する紫との距離は、ほぼ零。少女は浮いた右膝を深く深く深く曲げると、紫の両足の間に、己の気の全てを込めて打ち下ろした。その太ももはほぼ水平になるまで折り曲げられ、まるで大砲を放ったかのような轟音とともに、先ほどの比ではないひびが大地に入る。否、それはもはや、ひびの範疇ではなかった。少女の震脚はまさに地を割ったのである。体の中を龍が暴れているかのごとき感覚に、少女の全身は悲鳴を上げ、また右脚の筋肉がブチリと切れたのが感じ取れ� ��が、それらを強引に無視し、ゆっくりと――あくまで感覚上――息を吐き、じわじわと体内の龍を制御、右腕へと移す。全ての筋肉という筋肉、骨という骨、霊子という霊子を動員してなすべきことは。
既に地は割った。ならば。この拳のなすべきことは。
「天を――砕く――っ!」
格闘戦としてはありえないような爆音が周囲に轟き、荒れ狂うエネルギーの余波が木々をなぎ倒す。この技こそ少女の最終奥義、伏龍の顕現、千の修練と万の鍛錬を超えて超えて極の行の果てに身につけた、名付けて「崩山彩極砲」。その名の通り山をも崩す極彩の拳が紫の正中線を捕らえ、振り上げ抜けば、何かの冗談のように紫の身体が垂直へ打ち上げられると、頂点で放物線を描き、少女の背後� ��と落下する。しばらく拳を振り上げた姿勢のまま少女は固まっていたが、やがて全ての力を使い果たした反動で、ほとんど倒れこむようにしてへたり込んだ。
「は……はは、これで駄目なら、もう無理だ」
今更のように猛烈な痛みが各所から押し寄せ、あちらをなだめようとどこかを動かせばこちらが抗議の声を上げ、少女は顔をしかめながらまるで貧乏ゆすりのようにぷるぷると身体を震わせた。
「――あんたの敗因は」
それでも、誰に聞かせるでもなく、少女は呟く。
「二つ。一つは、気功に対する知識の低さ。『華厳明星』は私の生命エネルギーそのものなんだから、私相手に効く筈がない。それをあんたは知らなかった。もう一つは」
言葉を切り、少女は脂汗を浮かべながらも、痛みをごま� �すかのように、喉の奥で笑った。
「――『私の拳で私を倒す』という宣言。それがあったから、最後の最後で、あんたは『華厳明星』を突っ返してくるだろうと、私は考えた。だから、一見無謀に見えた突撃は、最大の賭けだった。あそこで普通に反撃されていたら、私の負け。でも、そうはならなかった。つまり、あんたの性格の悪さと、宣言した嫌がらせは必ず実行する、妙な律儀さ。それを、私に『信じられた』のが、最大の敗因よ」
「成る程、勉強になりましたわ」
ぞっとするような声とともに、ぞっとするように優しい両の手が背後から少女の頬に当てられる。
「……マジ?」
「大マジです」
もはや抵抗しようという気も湧かず、少女は嘆息とともに首を落とした。
「あれで無事って…� �あんたほんとに何でできてるのよ」
「ミルクとお砂糖」
「うっわ殴りたい……」
「それは冗談として、ちゃんと効いてるわよ。ほら」
背後に立つ紫はそう言うと、少女の頬に添えた手にそっと力を入れ、その首を背後に向ける。すると、少女の視界には、手を添えている紫の向こうに、きちんと倒れている紫がいた。いぶかしく思うと、倒れた紫の像がまるで燃えさしが風に吹かれるように剥がれてゆき、そして瞬きの後には、紫とはとても似つかぬ、立派な尻尾を持った妖怪が倒れているのだった。
「……身代わり?」
「ちょっと違うわね。私達は、『最初から』二人組だったのよ。いざというときの盾とすべく、ね。気付かなかったでしょう? あなた風に言うなら、そうね。あなたの敗因は、幻術を 見抜けなかったこと。異論は?」
「ないわ」
顔をしかめて首を振る少女に、紫は満足そうに頷く。
「よろしい。……とは言え、まさか本当に倒されるとはね。私の令を受けて動く式は、私と同等の力を持つ。誇りなさい、あなたは確かに、私を正面から打ち倒した」
「……あんまり嬉しくないのはなぜかしら」
「さぁなぜかしら。ま、安心なさい。あなたに敬意を表して、あんまり痛くない方法で気絶させてあげましょう。あと今後は、もう少し他人に優しく生きることにするわ」
嘘付け、と言おうとして、何をされたのか見当もつかなかったが、少女は急激に視界が暗くなっていくのを感じた。
そして、意識が落ちるその寸前、真っ暗な視界の中にあって、はっきりと白い、一筋の光が疾るのが� �えた。
少女はそれに、もう白線はこりごりだ、と思った。
「……藍は、あなたは老化が進んで、ろくすっぽ動けないって報告したけど。狐だけに狸と化かしあったってところ?」
倒れた少女の背後に立つ紫、その更に背後、老人の握る竹光の刀身が、紫の首筋に過不足なくぴたりと吸い付いている。
「嘘ではございませんな。少なくとも先日までは、動けるようになっていたとは気付きませなんだ」
「気功って凄いのね。私も習おうかしら」
「同感です」
背後の妖忌から何の威圧感も感じないことが、かえって紫の心中に、勝手に威圧感を呼ぶ。彼の技のもっとも恐ろしい部分は、静から動への切り替えの、その圧倒的な速さと鋭さであったと、今更紫は思い出すのだった。
「……いつから? 」
「幻術であることは気付いておりましたが、肝心の紫殿本体の位置が掴めなかったものでしてな……同じ場所にいたとは、何とも。友人がやられているのに加勢もできず、ただ見ているだけというのは中々に辛かったですぞ」
「酷いわ。私は友達じゃないのかしら」
「去る者日々に疎し、と言いますからな」
一体いつからか、この男はこの場に陰形で潜んでいたのだという。そう話している間にも、妖忌の腕はぴくりとも動かず、その刀身にもいささかの震えもない。その気になればこの男は一昼夜だってこのままいるだろうことを、紫は知っていた。
「……そんなもので、私の首を落とせると思う?」
「どうでしょうな。紫殿のこと、たとい真剣でも落とせぬやもしれませんし、第一私のほうが、身体� ��動くとも技のほうがまだ錆付いておりますし。まあ、そうですな、斬れば分かるでしょうな」
とぼけたように妖忌は言うが、かつて白玉楼において彼が、幼い妖夢に「斬れないものはあんまりない、くらいにしておけ」などと言いながら木刀で巨岩を両断しているのを目の当たりにしていた記憶を持つ紫としては、笑えない冗談であった。「斬れば分かる」は彼の口癖だったが、その猪武者のごとき印象とは裏腹に、彼は絶対に斬れると確信した時にしか、その言葉を使わないのだ――もっとも、弟子にはまだその境地は程遠いようだったが。
「本当は、戻りたくて仕方ないくせに。本当に……頑固者」
「年寄りですゆえな」
「だからそれは前からだったって言ってるでしょうが」
逆転を期して紫は横目で己 が式を見遣るが、まだしばらく使い物になりそうになかった。それでも無理やり起こすことは可能だろうが、そのすぐ側に、妖忌の半霊が抜け目なく控えている。その気になれば、半霊は人の形を取り、妖忌と全く同じように斬ることが出来る。手負いの藍ではいささか荷が勝ちすぎる相手だ。
「……仕方ないわね。私の完敗だわ。約束どおり、退くとしましょう……元からこっちも二人だったから、ずるいとか何とか言う資格もないし」
その言葉に、妖忌は刀を収め、深く頭を下げた。
「すみませんな」
「あやまらないでよ、ずるいわね。あなたのそういうところ、嫌いよ」
そう言って紫は、自らの影に吸い込まれるようにして、消えた。気絶したままの少女のもとにかがみこんで、妖忌は呟く。
「奇� ��ですな。私もそうです」
◆
「ああ咲夜さんごめんなさいっ! ……ってあれ?」
掛け布団を跳ね上げて身を起こした少女は、すぐにここが真っ赤な外壁のお屋敷ではないことに気付いた。状況を鑑みるに、どうも気を失った自分は妖忌の家に運び込まれたということで間違いないようだった。
「……かっこ悪」
自分に呆れてみたところで、どうしようもない。あの後、一体どうなったのかと思い周囲を見渡すも、小屋の中には少女以外に人影はない。囲炉裏には灰だけが残り、その火の気のなさは、結構な時間、誰も火の番をしていなかったことを示していた。
まさかと思い、慌てて立ち上がる。思ったほど身体の痛みが少ないことに、自らの回復能力の高さへの感心と、一体どれだけぐっすり寝てたん� ��という非難が、少女の脳内をぐるぐると駆け巡る。
穴の開いた外套は脱がされていたが、その下の衣服には手を掛けられなかったのか、そのままぼろぼろの哀れな姿をさらしている。それでも構わないと、少女は戸口に駆け出そうとしたが、枕元にたたまれた衣服があることに気付き、足を止めた。広げてみると、それは薄い桜色の、春めいた和服だった。相当古いもののように思えたが、何らかの魔術的措置が施されているらしく、ほころびは見えない。術の類に疎い彼女には、その詳細は不明だったが、とりあえず着替えろということだろうと判断し、来ている服を脱ぐと――脱いでから改めて見ると、本当にぼろきれにしか見えなかった――和服に袖を通す。少女の肌には触れず、着替えだけ置いておくようなやり方は妖忌の それであるように思えたが、しかし彼が女性向けの服を持っている理由が謎である。最大限好意的に解釈すれば、少女への贈り物であると考えられなくもなかったが、それにしたってサイズがかなり違った。いかにこの幻想郷で、アグレッシブな衣装――腋を露出させる巫女服とか――が流行しているとは言え、さすがに七分袖の和服は最先端を行きすぎだろう。
まるで妹の服を無理に着た姉のようだ、と思いながら、少女は三和土に下りる。靴もまた、綺麗に揃えられてあった。引き戸に手をかけ、ほんの少しだけ躊躇した後、思い切ってそれを引く。
目に入ったのは、赤。背を向ける妖忌の手に握られた刀、その刃が真っ赤に染められており、少女は我が目を疑った。しかしよく見てみれば、別段刀だけが赤いというわけで もなく、赤いのは周囲全体であって、要するに夕暮れであり、刀はやはりただの竹光であった。それなのになぜ、私は刀だけが赤いと思ったのだろうか、と少女が思考していると、老人がゆるりと振り向いてくる。
「……似合いませんな」
いきなりの言葉に、少女はたまらず吹き出した。
確かに、服の淡い色合いと、少女の鮮やかな気は、あまり合致しているとは言えないものだった。それにしたって、自分で出しておいてその言い草はないだろうと、少女はとても面白い気分になった。
「あの後は」
少女が尋ねると、妖忌は緩やかに頷いた。
「紫殿なら、帰りました……まだ、もう少し、ここにいることが出来そうです」
「そうですか……」
少女は、軽く息を吐く。
「それはよかった 」
その言葉に、妖忌は薄く微笑む。それだけで、自分のしたことは間違いではなかったと、少女はそう思うのだった。
「その、服ですが」
どこというでもなく、ぼんやりと少女の身体を指して、妖忌は口を開く。
「……昔の、嬢の服でしてな」
「はぁ」
道理で、と思う。
それならば、このおよそ洒脱さとはもっとも縁遠そうな老人が、このような服を持っていた理由になるというものだ。
おそらく、彼は、そのお嬢様が復活したと聞いて、後生大事に取っておいたこの服に、もう一度袖が通される日が来たと、そう思ったに違いない。
だが――
「いいんですか、私なんかが着ちゃって」
「いいのですよ。まあ、さすがにそれは差し上げられませんが」
「私もいらないで� ��」
二人顔をあわせて、軽く笑う。
「……少しだけ、門を開いてみたくなりましたゆえ」
妖忌はそう言って、右の手に握られた竹光を振った。しかしぞんざいに見えたその太刀筋は、僅かにせよ、大気すらも切り裂いたかのように、少女には見えた。
「あれ、治ってたんですか? なんで言ってくれなかったんです?」
少女の素朴な疑問に、妖忌は目を泳がせる。
「いや、まあ、その。治ったことが分かったら、その……もう来てくれんのではないか、と……」
何か物凄く珍しいものを見たような気がして、少女は目を点にした。次いで、こみ上げてくるものを押さえようとして唇をむずむずさせ、そして直に耐久強度を越えて大決壊。
「そこまで笑わんでもよいでしょう」
「いえ、� �の、すいません……クク……」
憮然とした声色の妖忌に、この数十秒で、かなり腹筋が鍛えられたと思いながら、少女は改めて向き直る。
「まあ、私は医者ではないので、別に治療するのが目的で来てるわけではないです。そこはご安心を」
「そうですか……しかし、色々とご迷惑をおかけしましたな」
「何を仰いますか」
少女は瞑目して、歌うように続けた。
「袖擦り合うも多生の縁。ましてや友人ともなれば、多少の便宜を図ることに、何の不都合が?」
いつかどこかで聞いたような言葉に、妖忌もまた瞑目する。
「あなたは、良い人ですな」
「あなたも。それと」
右手を差し出して、少女は言った。
「私は美鈴です。紅、美鈴」
美鈴の手を握ると、はるか昔に 感じたような何かが、また妖忌の胸の中に広がっていくように思えた。もう失くした古いものと、逃げてしまった旧いものと、そして今得た新しいものが渾然一体となり、妖忌という人格がまた新たに上塗りされ、変化したのだった。
しかしそれはもう、それほど嫌なことではなかった。
あれほど厭うていた物事も、今なら、なんとなく受け入れられるような気がした。
「……魂魄妖忌です」
書割めいた夕暮れの山河は時とともにその色彩を失くしてゆき、闇の緞帳が花芯を守る萼のように、二人を優しく包み込んでいくのだった。
「ホアチョォォォォァァァッ!」
「グハァッ!?」
美鈴の左拳が唸り、無防備に急所をさらす妖忌の脇腹へとめり込んだ。老体� ��そぐわぬしなやかな腹筋がその弾性を拳に伝え、反射的に押し戻そうとする力が感じ取れる。生命を蹂躙する感覚、その快感に美鈴の瞳は蕩け、全身を瘧のように震わせた。
「グッ……ガハッ……」
反吐を撒き散らしながら倒れこむ妖忌を、美鈴は嘲笑しながら見下ろす。
「ククッ……『訳が分からない』……って顔ねぇ……? 今こそお前の世話を焼いてやった本当の理由を教えてやるよ」
息も絶え絶えに睨み付ける老人の眼光は氷のごとく冷たく、また炎のごとく熱い。
「そう……『最強の剣客』を倒すために、私は敢えて、お前の病を癒してやっていたのさ!」
並みの妖ならばその視線だけで消し飛ぼうかというほどの重圧であったが、今はその剥き出し� �殺気が逆に心地よかった。
「周囲に誰もいない今こそ最大の好機! 冥界へは私の拳が送ってやる! 死ね!」
撃ち下ろした拳はしかし空を切る。霞のように消えた妖忌の気配を追っていると突如上からの斬撃、とっさに身をかがめ、空に飛んだ赤は血ではなくて一房の髪。
「あの一瞬で上空に逃れたか! ……だが、貴様にこの服が斬れるのかァ?」
ニヤニヤと挑発する美鈴に妖忌は山のごとく動じず、かえって不敵に笑みを返すのであった。
「侮っていただいては困りますな……この魂魄妖忌に、肉のみを斬る術がないとお思いか?」
斬り飛ばされた少女の髪が、ひらひら、ひらひらと宙を舞う。その最後の一本が地に接吻した、その刹那。
「「――素晴らしい!」」
もはや言葉は要� ��ず、そこにはただ二人の、全てを尽くすべく開門突撃を敢行した修羅がいるだけであった。
その酸鼻を極めた死闘は一週間にも及び、流れ出た血で周囲が赤に染まったことから後に「緋の七日間」と呼ばれたとか呼ばれなかったとか。
2007年02月23日(土) 公開
◆当時の後書き
あくまで個人的な意見なんですけども、
もし東方萃夢想にボイスが入ったとしたら、崩山彩極砲の声は
初撃→ほん!
二撃目→めい!
三撃目→りーん!
以外にはありえないのではないかと思います。
……うん、まあ、その。
とりあえず、後悔はしていないです、はい。
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