Toward The Sea :プルースト
サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)
大江健三郎の『取り替え子』からの孫引き(p66)である。
《母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てること》
――舐められるのは愛されること? しかし母熊に舐められるのは苦痛を伴うだろう。それは夏目漱石の苦痛とは全く逆の。《私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。》(『硝子戸の中』)とされ、生れ落ちてすぐに里子にやられ、8、9歳になって実家に呼び戻される漱石のそれとは逆の。
日本の読書会級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。(中野重治「小説の書けぬ小説家」)
ところで、「母熊に舐められた」によって、ラカンの「母親の鰐の口」が想起させられる(もっともラカンは前エディプス期をめぐって語っていて、長期間の舐犢之愛とは重ならない)。
"時私はビキニワックスを取得する必要があります?"ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。(「ファルス」と「享楽」をめぐって)
� �熊は厄介だ。《吾良はやはり子供じみて聞えるほど素直に、いかに自分が母親から自由になったか、を書きました。けれども私は、こんなに容易にお母様から離れられるはずはない、と思っていた》(いつかは心理学に逆襲される)。
あるいは、ミシェル・シュネデールの『プルースト 母親殺し 』 より(吉田城 シュネデール ネット上PDFファイル)。
ママンは、書くことへの導き手でもなく、奨励者でもなかった。息子が女優ラ・ベルマの演じる『フェードル』を観に行くことに対し、母親がどれほどはげしく反対したかを見れば十分であろう。彼女が恐れるのはライバルになりそうな女、あの「金色の声の輝き」ではない。母が許せないのは、息子が「考えもおよばないようなイメージ」のように、何か自分とはちがうもの、自分は知らないが息子が発見したいと望むもの……「目に見えないその形がそびえている、まさにその場で暴かれる女神の完壁な姿」……を「隠れて」よそに探しに行くことなのだ。母親のように「急にはるかへお発ちになるとやら……〔ラシーヌの『フェードル』からの引用〕」と朗々と述べるラ・ベルマを超えて、マルセルが探しママンが推察するものは、 別のオブジェ、別の無限なのである。この文学的対象は息子を惹きつけ、ついには「無数の私の夢が見た、想像を超えた独特な対象をようやく目を見開いて眺めるという甘美な驚き」のなかに引きずり込むにいたる。ここで、iは、モンティパイソンココナッツを購入できますか?ママンは息子の健康状態に対する心配と、このような上演がもたらすかもしれない体調不良を口実としながら、息子がそこに期待していたのが、「快楽とはまったく別のもの、いっそう現実的な世界に属する真実」であったことを見抜くのである。『ジャン・サントゥイユ』において母親は医者にこう打ち明ける。「私は息子が天才的芸術家になることは望んでいません。あの子の実際の知性と父親のあらゆる人脈によって、いつか大使館または高級官僚職で、重要な、高給が保証された、尊敬される地位にたどり着くの� ��見る方がいいんです。それでもあの子のなかに、詩の趣味を目覚めさせようと思います。」
時として世の母親たちは、息子の楽しみ……それは彼女らの統制できるものであり、その様態と対象を示すことによって人を介して体験することさえできるのだ……というよりも、その欲望を消してしまおうとするものだ。息子は欲望のために母親からいつも逃れ去り、母親も彼ら自身もそれを統制できないからである。
ーープルーストが『失われた時』を実際に書き始めるのは(つまり習作、試作を念頭に置かなければ)、母の死後四年後たってからだった(もっとも最近の草稿研究では異なった見解もあるのかもしれない)。
……
サド=ルネ・シャールに戻ろう。
《まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う》、そして《人間の非社会化を祝》うサド。
人間の非社会化? なんのことだろう。
カントの『啓蒙とは何か』の一節を思い出してみよう。
自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、---公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。(中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合に は、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのであ。(カントの『啓蒙とは何か』)
柄谷行人が指摘するようにカントは「パブリック」の意味を変えている、そしてそれが「カント的転回」だ、と。《通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。》
サド=ルネ・シャールの「人間の非社会化」とは、カントのいう「パブリック」になることではないか。《まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う》とは、カントのいう「自由」になることではないか。
そして、ネット上でしばしば語られる、「この場は公の場なのだから、発言に気をつけるべきだ」云々の意見は、「公的な場なのだから、理性を私的に利用することは制限しなさい、ただし公的利用は、いつでも自由であるべきだ」、とカントとともに読みかえてみれば、事態に対して別の接し方ができるかもしれない。
(学者、あるいは教師、評論家などが上記のような発言を、教え諭すように語る場合、まったく逆のことが言われているように思われることが多い。もっともあれらは、低レベルのルサンチマンから来る反撥のパロールーー公民としての地位からくるーーに対する苛立ちを暴露したりあるいはときには隠蔽したりしての反撃の語りでしかないのかもしれない。評論家な どに対してなされる怨恨の発話の殆どは、理性の私的利用でしかないには違いないのだから。)
※柄谷行人が《原発事故の責任を問う"東京裁判"は、市民自らが担うものでなければならない。それが「世界市民法廷」である》と語るときの「世界市民」はカントの意味合いの「パブリック」を念頭にして読むべきだろう(サルトルの『大戦の終末』と蓮實重彦、あるいは震災後の言説をめぐって)。
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