老人と門
白銀の礫は書割めいた夜の山河に時ならぬ色を付け、吹き荒ぶ風と共に本来黒一色であるべき闇の緞帳をはためかせる。それは幻想郷が埋没するのではないかと思えるほど風雪の苛烈な日の出来事だったので、はじめ彼が、戸が叩かれる音を、安普請の壁が上げている悲鳴だと勘違いしたとしても、まったく無理からぬところであった。
深い山中ゆえに薪には困らないとはいえ、それも家があればの話である。時折巻き起こる暴風が落とす葉もとうに尽きた木々を揺らし、枝々をたわませる。雑多にそびえるそれらを流れが通り抜けるたびに轟々と唸りが上げられ、さながら森全体が、低気圧のためにあつらえられた金管楽器のようであった。
そうすると、この� ��びは、これ以上俺達をいじめないでくれという森の抗議なのだろうか――柱やら屋根やらがきしみ音を立てるたびに、彼はそんなことを思いながら首をすくませる。老いると全ての物事に対して鈍感になるというが、なんの、痛いの寒いのと、嫌なことに対しては鋭敏になる一方である。身を切るような外気に対して、炉辺からちろちろと覗く舌はいかにも頼りなく、彼は何ということもなしに撫で回していた一本の薪を、新たに火にくべた。
再び戸が激しく揺れ、これは覚悟を決める必要がありそうだ、と彼は暗澹とした気分で呟いた。誰かに頼めるようなまとまった足も無く、仕方がないので自ら大工の真似事としゃれ込んでみたものの、彼は木を斬った事はあっても組んだ事は無いのであ った。ついでに、尺も無ければ鉋も無い。そんな条件で、兎にも角にも家が建ったことは一つの奇跡であったし、その家が今まで倒壊せずに屹立していたことも――隙間風や雨漏りを友とする生活とはいえ――また一つの奇跡である。だが、その奇跡も今日で終わりのようだ、と彼は思った。扉が無い生活というのは、一々開けたり閉めたりしなくてもいいというメリットに対して、いささかデメリットが大きすぎるような気がする。
箪笥でも代わりに置いておくか――と半ば本気で考えていると、三度扉が震える。彼はうんざりとしながらそれを見ていたが、ふとあることに気付いた。強風によって戸が吹き飛ばされる寸前であるというのなら、それは前後に揺れているはずである。だが、ど� �もそれは、左右に揺れているように思えた。
己の迂闊さを呪いながら、彼は尻を上げる。気は逸るものの、しかし膝はきしむし、腰は伸びない。かつて血気盛んな折には二百由旬を刹那のうちに駆け抜けてみせるなどと豪語してみせたものだが、そのころの自分が今の自分を見たら、一体何と言うだろうか。諸行無常盛者必衰などとうそぶいたところで、結局のところ人は、我が身に降りかかるまで真剣にそのことを考えなどしない。おそらくこの姿が老いた自分であるなどと、気付きもしないだろう。この老いぼれた身と粗末な東屋、まこと住居がその人を表すというのは至言よの、と彼は皮肉気に頬をゆがめた。
背に冷気を感じると、傍らに大きな霊魂が降り立った。同居人でもなければ取り憑かれているわけでもなく、� �れもまた彼自身である。今の今まで見えなかったのは、ただ近くにいると寒いので天井に追いやっていたわけで、これを自分ゆえの気安さと見るか、もっと自分を大切にしろと見るかは人それぞれであろう。身体の劣化などというものから遠く離れた軽やかな動きに、瞬時うらやましくなる。自分だが。
半身が器用につっかえ棒を外すと、途端に戸が勢いよく引かれ、風より先にそのせいで戸が外れてしまいそうであった。猛烈に吹き込む雪つぶてに、彼は目をすがめた。数間の先すら見えぬ吹雪が世界を白一色に染め上げ、もしや既にここ以外は全て埋まってしまったのかと、益体もないことを考える。と、風景の一部が突如として動き出し、彼の脇を抜けて小さな三和土へと転がり込む。な� ��かの馬鹿げた戯画のように雪の団子と化していたため判別は難しかったが、突き出した手やら足やらを見る限り、どうやら人体であるように思えた。こういう形の妖怪であるという可能性も否定はできないが。半身が戸を閉ざし、つっかえ棒をかけなおすことで、一応の外への結界が再生する。老人は首を振り、肩を払って僅かな間に吹き付けた雪を落とすと、ゆっくりと膝を曲げ、発掘作業に取り掛かった。
しきりに恐縮しながらしっかりとおかわりを要求する少女は、端的に言うなら健康的な美人であった。椀を受け取り、吊るされた土鍋の蓋を外せば、煮立った汁が湯気をくゆらせる。杓で掬って差し出すと、またしきりに恐縮しながらも、遠慮は一切見せずにかきこみ始めた。どの道作りすぎて困っていたところであった� ��、下品でない食べっぷりのよさは見ていて気持ちのよいものでもある。
見た目は人と区別のつかない彼女だが、その回復の速さから考えて、おそらく妖怪なのであろう。当初は雪と見分けがつかないほど白く死相の見えた頬も今は紅が射し、鮮やかな赤髪と相まって夏の太陽を思わせた。謝意を述べる声は高く澄み、鈴のように弾む。人好きのする微笑みを見て彼はなんとなく、おそらく彼女を慕う者は多かろうと思った。
「しかし、感心しませんな。雪山に、そのような軽装で入るとは」
「いやあ、日のあるうちに戻るつもりだったものですから。山に入った途端、何者かに追いまくられて、気付けば方角も見失い、この様です」
「妖怪の山を知らぬわけではないでしょう」
少女の身なりは、大きく袖の開� �た旗袍と乗馬に使うようなズボン、そのほかはマフラーのみと、とても冬の装いとは思えない。いかに身体の頑健さに自信があろうとも、過信に至ればそれは慢心というものである。たしなめるような調子で説諭する老人に、少女は眉尻を下げ、顔から力を抜いたような笑みを浮かべた。
「そうですけども、この時期にまとまった木が手に入る場所なんて、ここか魔法の森しかありませんし」
「冬備えを怠りましたか」
「この前に失火してしまいまして。皆で方角を決めて、真冬に柴刈りです」
皆ということは、彼女はどこかに勤め、あるいは仕えているのだろう。天狗に追い回されて目立った外傷もないという点一つから考えても――天狗の目的が傷つけることではなかっ� �としても――彼女とて、並の妖怪ではあるまい。彼女を使えさせるに足る人物とは、どれほど圧倒的な力の持ち主か、もしくは圧倒的な徳の持ち主か。老人はしばし夢想したが、なんにせよ下種の勘繰りにしかならぬと気付いてやめた。
「左様でしたか。しかし、今度からはもっと厚着してくるのですな」
「身に染みました」
彼女は頭を掻きながら、白い歯を見せる。なんとなく大抵のことなら許せてしまいそうな、気を安んじさせる笑みである。こういう笑い方をする人は一見得なように思えるが、その実なにかあるごとに面倒ごとを負わされる可能性が高い。彼女もまたそうであろうと、老人は長年の経験から感じ取った。大体こんな場所を担当させられる時点で、便利に使われているに違いないのだ。彼女はそれを 自覚しているのかいないのか、どちらにしても悲劇であり喜劇である。
それから少しの間、炉端の火を眺めながら他愛もないことを話す。可憐な少女が話相手になってくれるというのは、彼にとってもそう悪い気分ではなかったし、実際彼女は話上手であった――話術が上手いというのではなく、他者を華やいだ気持ちにさせてくれるという点で。話題が途切れたときを見計らい、老人は少女に問いかけた。
「さて、今晩はいかがいたしますかな。あの通り」
そう言って老人は戸を見遣る。相変わらず風は荒れ狂い、壁に遮られて見えぬながらも、あまり積極的に出て行きたい天候ではなさそうなのは明白である。
「まだまだ吹雪いているようです。粗末な寝床でもよければ、提供いたしますが」
老人の提案に� ��少女はうーん、と悩む風を見せる。
「しかし、そこまでご厄介になるわけには」
「なに、誰に遠慮するでもない一人身。孫が一人遊びに来たようなものです」
少女は眉を寄せて逡巡するが、少しの後、眼を開けて、申し訳なさそうに辞退した。
「いえ、すみませんが……帰りが遅れると、皆が心配してしまいますから」
「確かに、それもそうですな。お気を悪くなさらず」
そういいながらも老人は、心中に芽生えたほんの少しの落胆に、顔には出さず驚いた。とうに枯れ果てたと思っていたこの身にも、まだ人恋しさというものが残っていたのだろうか。
驚きを押し流そうというように、彼は口早に続ける。
「ここから出て北……右ですな、そちらに真直ぐ進むと人里に着きます。お宅がど� �らかは存じませぬが、参考にされるとよろしいでしょう」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
頭を下げ、腰を上げようとする彼女を、老人は手で制した。
「お待ちなさい。よろしければ、これを」
半身の幽霊が、畳まれた衣服を載せて少女の横に停まる。少女の視線に頷きを返すと、少女は衣服を手に取り、広げた。
「古ぼけた外套ですが、使ってくだされ。無いよりはマシというものです」
「しかし……」
「なに、私の分は最近新調しましてな。処分に困っていたところです。それに……」
老人は一旦言葉を切り、ニヤリと唇をゆがめる。
「帰り道でまた倒れられたら、叶いませぬからな」
「いや、ははは」
少女はそれに、頬を引きつらせた。
「……では、 ありがたく使わせていただきます」
そう言うと少女は立ち上がって外套を身につけ、頭を下げる。老人にしてはかなり長躯である彼にあわせてあつらえられたその外套は、また女性にしてはかなりの長身である少女にとっても大きく、なにか自分がちんまりとした存在であるような気がして、少女は今までに感じたことの無いくすぐったさを覚えた。
「少しは風も防げましょう」
「ええ。大風には参りましたから、助かります……帽子も、集めた枝もみんな飛ばされてしまって」
「ああ、そう言えば薪を集めに来たのでしたな。なんでしたら、少し蓄えがあります。持っていかれますか」
「え、いや、そこまでご好意を受けるわけには」
老人の示す先に山と積まれた薪を認めて、慌てたように両手を振る� ��女へ、老人は穏やかに言った。
「帰りが遅れた上に手ぶらでは、肩身も狭いでしょう。まあ、あまりたくさん持っていかれると困りますがな」
「ええと……ええ、じゃあ……それでは」
本当に済まなそうに、少女は一本二本と薪を手に取る。妖怪というものは一般的にもっと遠慮の無いものだと思っていたが、その認識は間違いなのか、それとも彼女が特別なのか。
もっと持っていってもというところで少女は手を止め、懐から取り出した布地に包む。
「本当に、何から何までありがとうございました。このご恩は、必ず」
「忘れていただいて結構ですよ。袖擦り合うも多生の縁と申します。ましてや一飯を共にしたとあれば、多少の便宜を図ることに何の不都合がありましょうか」
その言葉に、少 女は花のような笑みを浮かべると、最後に深々と一礼し、戸の向こうへと去っていった。
急に冷え冷えとしたように感じられる室内を見渡し、老人は軽く息をつく。山奥に一人、仙人を気取ってみたところで、たまにこうして誰かが訪れるだけで孤独に寂しさを覚えるようでは、まるで未熟から脱してはいない。だが、あるいはその未熟さこそが、彼もまた人である証左なのかもしれなかった。
相変わらず火は頼りなかったし、また風は相変わらず唸りを上げて吹き付けていたが、なぜかそれは、先ほどよりも気にはならなかった。
◆
「……忘れていただいて結構です、と言ったと思いましたがな」
「このご恩は必ず、と言いました」
大雪は結局三日三晩に渡り、最後のほうはもはや風で壁が吹き飛ぶよ� �も、積雪で屋根が潰れるほうが心配だった。
窓などという気のきいた物は、この家には存在しない。壁の隙間から差し込む日差しに晴天の訪れを感じ、久々に戸を開けてみれば腰まで届きそうな積雪に思わず苦笑する。まこと雪というものは、降っても止んでも厄介である。
まずは雪を下ろさなければならぬと彼は屋根に上がり、横着して妖術で雪を散らしたところで、一陣の風を感じて振り返ると、そこにあの少女が降り立っていたのであった。陽光の下で見ると、その鮮やかさはより一層引き立って見える。それは燃え立つような赤髪や、胸部の豊かな膨らみによるというよりも、少女自身の生命力によるものであるように、彼には思われた。彼女はなぜか盛大に息を上げており、何か後生大事なもののように抱えている� �きな包みを、強く抱きしめる。
すると、ざわり、と気配が立ち込め、どこを見渡しても姿は見えないものの、何か多くの存在が周囲を取り囲んでいるように感じられた。ビクリと少女は顔を上げ、端正な顔に戦意をみなぎらせると、老人をかばうように立ちふさがる。そんな彼女に老人はまた苦笑し、少女の肩を叩くと、やや力を込めて押しのける。老木の痩躯とは裏腹の、物理的なそれではない『力強さ』に、少女は驚いてたたらを踏んだ。
老人は少女の前に出ると、軽く頭を下げる。
「申し訳ありません、私の客です。ご不満とは存じますが、私の顔に免じてお引取りいただけませんかな」
とは言ったものの、異物には概して厳しい上、体面を気にする山の住民である。彼とてこの程度で帰ってくれるとは思え なかったし、実際気配は一向に減る気配を見せない。老人のほう、と吐いた息が透明な世界を色付け、僅かの間ゆらゆらと漂い、消えた。
その瞬間、眼前の隠居翁然とした人物がとんでもない狼であったことを少女は知った。元より針を刺すような冷え切った朝が、今は目の前に刀を突きつけられたような、臓腑の凍りつく空間へと変貌を遂げる。何がどうなったわけでもない、変わったことといえば、ただ眼前の老人が少しばかり眼光を強めただけである。しかしたったそれだけで、老人の背中から発せられる圧倒的な殺気に、少女の心臓は早鐘を打ち、また自分の体毛が全て逆立ったような感覚を受けた。背後でこれなら、正面から相対したときの威圧感は、一体いかほどになろうか。
「……お引取りいただけませんかな」< /p>
口調だけはあくまでも穏やかに、老人が繰り返す。しばしの膠着状態の後、一つ、二つと気配は消えていった。やがて包囲が完全に解かれると、老人は同じようにほう、と吐息をもらし、そしてそれが何かのスイッチであったかのように張り詰めた空気は霧消した。
立ったまま腰を抜かしたようにぼんやりと口を開けていた少女は、振り返って乱暴に押しのけて申し訳ないと謝る老人の姿を見て、ようやく我に返る。それは確かに、数日前に出会った老人そのままであり、今しがた感じた鬼気がなにか幻のように思えてしまった。そうすると少女は、なぜか急に恥ずかしいような気分になって来、紅潮を沈めようとして、より一層頬を赤らめる。こういうのも吊り橋効果と言うのかしらんと、少女の残った冷静さが心中で呟い� �。
「こちらこそ、その……また助けていただいたようで」
老人は、呵呵、と大笑した。
「なに、あんなもの、ただの挨拶のようなものです」
「しかし、全く一触即発のような空気でしたが」
「あれは、『好戦的な老人に脅されて、平和を愛する私達は仕方なく退いた』という形を作るための、双方分かった上での芝居だと思ってくだされ」
「はぁ」
根が素直な少女にはよく分からぬ世界である。小首をかしげる仕草の愛らしさに、老人は目を細めた。
「天狗は面子にこだわりますからな。このような面倒な手続きを踏まなければ、誰も帰るとは言い出せぬのですよ」
「そういうものですか、よく分かりませんが……しかし、それにしても」
少女は、老人の全身を無遠慮にねめまわ� �。どう見ても老人であり、何度見ても老人であり、やっぱり結論として老人であった。老人がやたらと強いのは話の中だけかと思っていたが、その認識は改めなければならないのだろうか。
「ご期待に沿えず申し訳ないのですが、あれはただの虚勢に過ぎませぬな。腰は曲がり、膝は曲がらずでは戦える道理もなし。あのまま彼らが襲い掛かってきたなら、是非も無く叩きのめされていたでしょうよ」
視線から少女の感情を読み取り、老人は喉の奥で笑い声を立てた。それは嘘ではなく、かつて並び立つ者無しとまで言われた彼にも、歳月は平等に刻まれる。せめて気だけは若くありたいと願う、それがもう老いた何よりの証左。それに気付いてから彼は、衰えに抗うことをやめた。
それに、老いたおかげで得たものも� �る――例えば、悪びれもせず馬鹿馬鹿しい小芝居を打つ老獪さとか。そう思い至って、彼は思わず心中で苦笑した。奸智などというものは、まさに若い自分が一番嫌った事柄である。してみると、得たものと失ったものは、案外釣り合いが取れているのかもしれなかった。
「はぁ……」
まだ納得しかねる様子で、少女は首をひねる。例え今はそうであったとしても、あの思い返すだけで身の毛もよだつような強烈な気は余人に放てるものとも思えない。それこそ、少女の主である、あの恐ろしい吸血鬼にも匹敵せんばかりである。一体その境地に至るまで、彼はいかほどの修羅場を潜り抜けてきたのだろうかと、彼女は老人に深く刻まれた年輪を見つめながら夢想した。
> わりとどうでもいい <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^^Y^ ̄
ヘ(^o^)ヘ
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